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ボンベイサファイア
ボンベイサファイア
novelistID. 18513
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第九回東山文学賞最終選考会(4)

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 隣で寝ている咲を見るといつものとおりの寝顔だった。その休むだけの表情からは昨夜の感じてるだけの表情は想像出来ない。咲のその表情は俺だけの大事な宝物だった。そう思うとまた愛おしく感じられて口付けをする。寝ている咲が、ん、ん、と少し声を上げたけれども起きた様では無かっので貴博に、さんきゅ、と短くメールを返すといつも通りの朝の活動を始めた。
 目玉焼きとトーストの朝食を作り、コーヒーを入れると咲を食べて、お互いの予定を確認する。夕方まで二人共講義で、その後の予定は特に無かった。
 「合間か、最後に岬さんに渡してくるし、ちょっと遅れるかも。」
 「うん。」
 それから咲の準備する姿を見たりテレビを見たり、講義に出たり、貴博に原稿を渡したりして夕方まで過ごすと、岬さんの部屋へと向かった。
 岬さんの部屋、と言っても、助教授なので専用の小部屋があるわけではなくて英文科の準備室を私室のように使っているみたいだった。
 その扉の前で、一度深呼吸してから、ドアを軽く二度程ノックする。すると、はい、と中から声が聞こえたので開けて入って、後ろ手で扉を閉めた。閉めながら、部屋と岬さんとを眺めた。
 他の教授室より、少し大きめの部屋だった。中央に応接用のセットが置かれ、壁一面に本棚が設置されていてほぼ隙間無く洋書が並んでいる。それから、奥に事務用の机が二つ、その一つは作業が出きるように文具や本が置かれてはいたけれども誰もいなく、もう片方の机には岬さんが座っていて何かを書いているようだった。
 「あら、」
 と、俺を見るなり満面の笑みを浮かべて岬さんが立ち上がって迎えてくれる。
 「お久し振り。やっと来てくれたんだ。」
 その少し低い声音と一言々々はっきりと発音する喋り方を聞いて、まるで蓋が開いたように昔一緒に過ごした時の事を思い出す。そして、すぐにヤバいな、と思う。ヤバいな、このキモチに流されたらずっとあの頃の思い出に浸っていなくちゃならなくなるな、と。
 だからすぐに事務的な事柄だけを意識するようにして岬さんを見返した。
 丁度、岬さんも俺が持っている原稿の束を見ていて、俺の所に付く前にこう言った、
 「出来たんだ?」
 そして、目の前まで来ると、その束を受け取り(なぜかその時自然に原稿を差し出していた)、一番上の表題を見てから数枚捲って、
 「楽しみだわ。」
 と、まっすぐ俺の目を見つめてきた。
 咄嗟に視線を逸らす。
 「一読して頂けますか。」
 逸らしているので何をしているのか、あるいは何を思っているのか、さっぱり分からなかったけれども、岬さんはすぐには返事をしてくれなかった。
 それで、俺は岬さんは怒ったのかな、と思った。色々あったとはいえ、俺の方からこうやって久々に会いに来たのに、目も合わさず原稿だけ渡して読んでくれ、では気分を害したのかもしれない。
 だから謝った方がいいかな、と思ったけれども、どうしても逸らした目を戻す勇気が俺には沸いてこなかった。
 そうこうしているうちに、岬さんが言ってくれた。
 「うん、もちろん読むよ。」
 それは記憶に焼き付いている声、とまではいかないまでも、さっきの歓迎の言葉と同じ口調だった。少なくとも、誰かが聞いて怒っているとかそういう何かの感情を強く含めている言い方では無かった。普通。そう、普通の言い方。
 「ただね、私もこうやって書いたものを持ってきてくれる人も多かったりして、断ったりしてるのよ。でも、たくの頼みだもんね、もちろん、読んでみるわ。」
 「ありがとうございます。」
 俺がお礼を言うと、一呼吸置いてから、岬さんが僕の肩をどぉーん、と叩いた。そして叩きながら、
 「なぁにが、ありがとうございます、よ、二人きりの時ぐらい、昔みたくしたっていいのよ?」
 と、明るく言ってくれた。それは誰が聞いても暗い気分やわだかまりを吹き飛ばすような、悪意も他意も感じられない明るい言い方だった。
 びくっ、っと驚いて岬さんを見る。すると、にっこり、と笑っていた。こういう笑顔を何度か見たことがある。俺に好意を寄せている女が二回目か三回目かに二人きりになった時によく見せる笑顔だった。俺も警戒心を解いてもいいかなと思える笑顔。
 その温かさに、胸の中からさまざまな思いが溢れ出てきた。あの時の感情、感触、そういった物が胸から絞り出されるように顔にまで昇ってきて、涙となって溢れそうになる。それを、必死に我慢する。
 全てから見放された俺に差し伸べてくれた手の温もり、だいじょうぶだよ、わたしはここにいるから、と微笑んでくれたあの夜。
 だからすぐにうつむいてしまって、うん、と小さく呟やいて答えるのが精一杯だった。けっして、今、涙を見せるわけにはいかない。
 「それじゃぁ、金曜日にでも取りに来なさいな。読んでおくから。」
 おそらくそんな俺の胸の内なんか手に取るように解るのだろう、そう言われて一つ頷くとそそくさと部屋を出た。
 扉を閉めた瞬間、目から一筋、涙が零れた。
 それを手で拭き取る。こんな小説みたいな事があるなんて。涙を堪えきれない事は始めてだった。
 それから歩いて駅まで向かう。途中、本屋か何処かに入ろうかと悩んだけれどもいざ店の入り口の前まで来ると中まで入っていく気になれなかった。そのまま駅に付いて、まだ駅は早いよな、と思いながら電車に乗って、いつも通りに流れていく景色を見ながら降りると、スーパーで食材を買おうかな、と思いながら部屋の前まで来ていた。
 扉の前で鍵を出す。中の音は聞こえない。開けても何かの音は聞こえなかったけれども、咲のピンクのスニーカーが玄関にあったので帰ってきているな、と思った。
 「おかえりー。」
 奥に入っていくと咲はベッドで寝転んで漫画を読んでいた。
 「どうだった?」
 顔を上げて俺を見てくる。
 「ん、受け取ってもらえたんで。金曜日に取りに行く予定。」
 「金曜日ってぇと、」
 上を向いて数えているようだった。
 「明後日ね。」
 「うん。」
 頷きながら椅子に座る。
 「あのね、文学部でも小説書いてる人多いんだけどね。なんか、伊集院とかって人が東山文学賞に応募したんだって。」
 「うん。」
 「それがね、実力はまぁまぁなんだけど、親戚に国会議員がいるらしくて。その影響で獲っちゃう
んじゃないかって。」
 「それはありえない。」
 俺は話した。
 「国会議員のような立法や行政、司法の人間は出版業界には関われないように出来てるんだ。戦前、マスメディアが国民を扇動する役割を担った反省で、今は絶対に関われないように出来てる。」
 「そうなんだ。でも、そう話してたよ。」
 「どうせ、陰謀説が好きなやつらだろ。あいつら、なんでも権力機構とか宗教団体とかに結びつけて物事考えるだろ。世の中そんなに単純じゃねーっつーの。いい加減、現実見ろよ。」
 咲が、小さくふぅん、と呟いてから漫画を捲った。それで、俺はしまった、と思った。間違いを言ったつもりは無かったけれども言い方がまずかったかもしれない。