第九回東山文学賞最終選考会(4)
あからさまな小声の言葉に少しすまないと思ってしまって、会話をつなぐつもりで聞いていた。すると、マリさんがその顔をまっすぐに俺へと向けた。その動きが素早くて思わず見返した時、あきらかにマリさんの目から色が無くなり、少し細くなって、顎が上がった。それは怯えているような顔だった。俺たちが例えば受験の予定を知ったり友達の裏切りを知ったり、そういう現実に気付かされた時にするような怯えの顔だった。なので、俺は息を呑んでしまって、途端に下を向いてしまった。それからその後にすぐ下なんか向く態度を見せるんじゃなかった、と後悔したけれども後の祭りだった。
気まずい、少なくとも俺は気まずいと思っている沈黙の時間が少しばかり流れた。その後、
なんか、ごめんね。
と小さく呟いた。
すると、
ううん、だいじょうぶ。
と答えてくれた。
「私こそゴメン。あー、なんかゴメン。」
別になげやりな感じじゃなくて、本当に他に言葉が見つからなかったような言い方だった。それを聞いて、少しほっとして言った、
「なんか悩みがあったら聞くからさ。」
「もう。」
その、もう、は、さっきまでのマリさんにすっかり戻っている、もう、だった。
それから角でじゃぁね、またね、と別れると腰の後ろで手を組んで歩いていくマリさんをしばらく見てから、携帯を取り出して貴博にメールする。
どじったっぽい。
マリさん彼氏ともめてるらしい。フォロー頼む。
それから数分ほどマリさんが帰って行った道を見ていたけれども、返事が無かったので帰る事にした。
京子さんと上手く行っていればメールなんかすぐ見ないだろうし、行ってなければふてくされて携帯なんか取らないだろうし、上手く行きそうだったらメールどころじゃないだろう。
部屋に付き、鍵を使って扉を開けると肉の焼ける美味しそうな音といい匂いがしてきた。
「あ、おかえりー。」
中に入ると聞きなれた声が聞こえる。悪意も他意も無いことがわかるその声と見慣れた部屋に安心しながらただいま、と答えて台所に向かい、後ろから咲の腰に手を回して体を合わせた。
「んー?どうだった?今肉焼けるかんね。」
その髪から良い香りがする。左手で俺の回している腕を擦りながら右手で器用にフライパンの中の肉をひっくり返す。
「豚トロ?」
「うん、安売りしてたんだ。食べる?」
「あー、食べたい。」
それから腕を離すと今日のあらすじを話した。
「そりゃよくないわね。」
炊きたてのご飯と肉を乗せ、人参とキャベツとで彩りを添えた皿をテーブルに持ってきながら感想を言ってくれる。
「だよなぁ。いちお、貴博にメールしたんだけど。」
経緯を話していて少しマリさんへの申し訳なさを思い出したけれども、この肉のおいしそうな感じにすごく惹きつけられてまた忘れてしまう。
「あんなヤバいぐらい彼氏と上手く行ってないなら、最初にそう言ってくれればいいのにさぁ。そうすりゃ俺も気を使うってのに。」
「タクだから話せそうになったんじゃない?」
二人していただきますをして食べ始める。夕方前に少し食べたとはいえ、クリームも抜いた女性向けのスパゲティだったしまだ食欲はあった。何よりも、塩胡椒をした肉の匂いと火の入った油の色艶を見ていたらまた食べたくなって来た。食べきれなかったらラップをして冷蔵庫に入れればいいだけの話。
それに、俺も咲も、肉が好きだった。正確に言えば肉も好き、だけれども。よくその事を不思議がられる。咲は太っていない、どちらかと言えば細い体型だったし、俺もほっそりした身体つきで見た目には筋肉もそんなについてないように見える。実際、ここ最近はトレーニングもさぼっているし落ちたかもしれない。だからこうやって部屋で食べる時はけっこうボリュームを多くする事が多い。
たまに、あぁ、食べるのもアリかもね、といった目付きで咲の胸やお尻を見る奴がいるけれども、そういう奴にはすぐにか後でぎゃふんと言わせてやる。その度に思う、俺も大人になったもんだと。昔なら間違いなく、殴ってる。
少し話が逸れたけれども、そんな訳で冷蔵庫には食べる物があることが多いし、今みたいにタイミングがあえば出来たてを頂く事もある。
「そうそう、小説だけどさ、」
マリさんの話を少ししたりしながら肉を三分のニ程美味しく頂いた時に思い出して話し出した。
「文学部の教授に読んでもらおうかと思うんだ。」
「鉄平?スミタ?カバ男は辞めといた方がいいんじゃない?」
まだ半分ほどの所を噛み締めている彼女が合間に答えてくれる。食べながら話す時は、まぁ二人ならぎりぎり許せる、って所でお互い妥協している。もちろん、外で食べる時は気を遣うけれども、両方供話に夢中になってしまう癖があるのだ。
「んー、とりあえず岬助教授に頼もうかなって思ってるんだけど。」
「岬さん?スミタの愛人?」
「そうなの?」
「なんかね、」言いながら箸を置くとお茶を飲んで、それから続けてくれた。「学食でいつも一緒なんだって。それがね、二人供焼き魚とか豚汁とか、庶民っぽいの食べてるらしいのよ。スミタならケチっぽいし解るんだけど、岬さんって見栄っ張りだし皆が見てる所でそんなもん食べなさそうじゃない?っていうか、独りで学食とか見たこと無いし。なんせ、スーツに切れ目で帰っちゃうような人だもんね。その後、学長にめっちゃ怒られたらしいけど。でね、食堂じゃなかったら、朝の食卓っぽいらしくて。岬さんがスミタの部屋入ってく所よく見られたりしてるしね。独身の色っぽい女が同じく独身の男の部屋に入って行って数時間、とかだよ?でねでね、誰かストレートに聞いたらしいのよ、二人に。そしたら、なんだったかな、スミタはいいえ、そんな事はありません、って答えて、岬さんの方は、私には本命がいるのよ、とか言ったらしいのよ、本命がいるってことは、スミタは愛人契約って事じゃない?ん、どした?」
なんか急に聞いてきたけれど、逆になんで聞かれたのかわからなかったので取りあえず興味のある事を聞いてみた。
「部屋って、住田教授の家?」
「部屋?あぁ、教授室よ、まーっさか、昼間から教授室であんあんは無いだろうけれど、教授室、防音らしいしわっかんないよね。私ら入る前、さ、学生連れ込んで首になった教授居たらしいじゃん?」
経済学部ではそんな話は聞いたこと無かった。そんな話どころか浮ついた話も聞かなかったし、そもそも教授陣がそういった活動が出来るか疑問に思うほど高齢だし偏屈だ。これが経済を極めようとする者と文学を嗜む者との差なのか。
そういえば貴博が経済の奴には文学の話で、文学の奴は現実の話で落としやすいんだよなって言った事があったな。いまいち意味がわかんなかったけれど。
「そうなんだ、こっちにはそういう話聞かないなぁ。」
「聞いてないだけじゃない?」
「そうかも。」
「んで、」再び食べ始めた咲が言ってくれる。「岬さんだったらもってってあげようか?私、風邪気味ん時面倒見てもらったり、検診とき、女子の手伝いしてくれたりしてるし仲いいのよね。」
作品名:第九回東山文学賞最終選考会(4) 作家名:ボンベイサファイア