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小さな鍵と記憶の言葉

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 痛いと思う間もなく、私は階段の一番下まで転げ落ちた。目の前に迫る絨毯敷きの床、頭上に見える金の手摺の装飾。あれを必死に掴もうと思ったけれど、届くことはなかった。
 今になっても痛みはない。それを確かに意識して、驚く。ぐるぐると視界が巡った割には体の何処にも痛みは生まれなかった。その代わりに届いたのは、全身を包む温かさ。私は驚いて彼を呼んだ。

「フィン……!?」

 何十段落下したと思った階段の中腹に私は居る。距離は二メートルくらい、十段かそこらで転落を免れたのは彼のおかげだった。突き飛ばされた私に向けて伸ばされた腕。呆然と身を投げるしかない私を、身を挺して庇ってくれたのは紛れもなくフィンだった。ごつごつした階段の角が痛くなかったのも、頭を打って気を失わずに済んだのも。
「怪我は無い? リラ」
 エプロンドレスの私を体ごと包んで、手摺を頼りにして支えている。すぐ目前に迫るのは彼の心配そうな顔で、開放されても尚その表情は真剣に私の無事を確認している。
 ふと見渡せば手の甲に痛みがある。どうやら手摺の装飾で切ってしまったらしい。けれど私は気付かなかったふりをして、何ともないと首を振った。
 フィン自身にも異常はないようだ。それが分かってほっと息を吐く。

「私は大丈夫。でも――」
 私達は階段の上を見た。私を突き飛ばした犯人は今もそこに立ち尽くしていた。今にも泣きそうな顔で、私を見ている。
「アリス……」
 その声が震えている。自分のしたことを悔やむように、へたりと踊り場に膝を折った。
 大勢いる給仕の衣装、見慣れたオレンジ色の髪の少年。

「ケイ……どうして」

 名前を呼ぶ。そうすることで、彼が犯人だという否定と確認を同時にする。
 そう。踊り場に立っていたのはトカゲのケイ。グレンヴィル家の給仕だ。
「あ……僕は……」
 必死に握り締めた両手は白く変わってしまっている。青ざめた顔、みるみると歪んでいく目元。けれどそこには、後悔と安堵が広がっていた。自分の過ちに気付き、自分の目論見が失敗したことを喜んでいるようにも見える。その真意はケイの言葉にも感じられた。

「ごめんなさい……こんなこと、するんじゃなかった……」
 彼の目にゆらゆらと透明な懺悔が滲む。それを両手をもって必死に押し留めている。
 言葉に、表情に、それは彼が望んだことではなかったのだと教えられた気がした。何か変えられない事情があって行動に移すしかなかったのだと。
 誰に言われたの。何が必要なの。叫びたいのを我慢して、ただただ彼に呼びかける。

「どうして、こんなこと――私が嫌いだった?」
 数拍遅れて自分の声が震え始める。ここに来てやっと恐怖が追いついてきた。
 突き飛ばされたことに対してじゃない。彼が、私をどう思っていたのか。
 階段を駆け上がって、ケイの元へ走り寄った。小刻みに震える肩をしっかりと掴んで支える。
「そうじゃない、違うんです。貴女のことは好きだ。最初よりずっと慕っています。でも、貴女は、アリスで」
「アリスが嫌いなの? 私はアリスに相応しくなかった? それとも――」

 それとも、私より相応しい人がいた?
 もしかして、それは――