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小さな鍵と記憶の言葉

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「変わっているよ」

 私の呟きに白兎が小さく囁く。噛み締めるように、一緒に深く深く頷きながら。私は思わず瞬きを繰り返した。
 まるで唐突に光の中に出た感覚。靄がかった聴覚が急に鮮明になり、喧騒の中に彼の声が浮き上がって聞こえた。
「アリスのお陰だ。君が来てくれて安定している。住まうものたちも、世界も。君が僕たちを見ていてくれるから、この街は穏やかさを保つことが出来る」
 彼は珍しく笑顔を浮かべていなかった。あの、時々私から何かを隠してしまう笑顔。その代わり今は真摯な瞳で私を肯定している。 

 兎は首を縦に振るのだ。今はアリスがいるのだから、と。

 街の子供達が、私達の間をすり抜けて行った。くるくると笑いあう眩しい顔。悪戯っぽさと無邪気さと、ほんの少しの大人びた心を重ねた少年少女たち。
 刺繍と織物の衣服は僅かな陽光を浴びて暖かそうで、その輪の中にまた一人二人、光が集まるように合流する。フィンがそれを立ち止まってやり過ごし、彼の歩幅に合わせて私もまた人混みを歩いていく。
 《アリス》はこの国の、あるいはこの世界の女王。世界の中心に佇んで、半円状の世界を見渡す。けれど小さな私では、あのうねりの先も斑の空の先も確かめることは出来ない。
 それなのに頷いてくれる。本物でないアリスを許してくれる。だから胸が痛む。思わず彼の言葉を否定する。

「でも私は」
「知ってる」

 驚いて、間近の深紫を覗き返した。
 どこまでも透き通った色だ。見詰めていればいつか飲み込まれてしまいそうな。黙ったままの私に彼は続けた。

「君がいつか帰るのは分かっている。もう殆ど近い、『いつか』。けれど心配要らないよ。弁えているから。僕は」

 やはりフィンは最後の最後に微笑を浮かべた。それがひどく苦しい。
 だって、弁えているって、どういうことだろう。ここに引っ張ってきたのは彼のほうなのに。
 彼は、白兎は、唯一私の本心を知っているはずだ。仮初のアリスをひとときの間だけ担って、季節が巡って時間が整えば、私は水面の向こうへと帰る。きっと、後悔も心残りもないままに懐かしい我が家へ、私の世界へ。

 けれど。
 けれど、本当にそうだろうか。私は振り向かずに向こう側へ帰れるだろうか。
 私の求める通りに自分の町へと帰って、何一つ名残惜しいと思わずに居られるだろうか。
 並んでいたはずの歩幅が開いて、そっと立ち止まる。

「……フィン」

 名前を呼ぶ。彼はどう思っているだろう。自分でも分からないままに彼の名を呼ぶ。遠くで正午を知らせる鐘の音が響いた。聞こえるはずのなに振り子の音は、きっと風の創る空耳。
 ゆっくりと歩いて行く後ろ姿を追いかけて。
 返事を待つことはなかった。