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小さな鍵と記憶の言葉

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第9章


9 偽海ガメの話  “The Cook Turtle's tales”

 
「もっと、手早く! それじゃあ空気が逃げてしまうよ!」


 人生最大の選択ミスをしたかのように、コックコート姿の男性が頭を抱える。
 私は仕方なく、痺れてきた腕を叱咤してかしゃかしゃとボウルをかき混ぜる。それを見て彼ははらはらしつつ、今度は隣のテーブルを覗き込んで絶叫する。

「ああ! バターは室温に戻してから! それから、砂糖は適宜分けて入れるようにしないと!」

 突然に大声を浴びせられて、せっかくふるった砂糖を些かこぼしてしまったのはオレンジ髪の少年だった。
 どうやら料理長の苦悩は尽きないらしい。とは言っても彼――線の細い女性にも見えるけれど――は先刻から私の一挙手一投足を見守っているだけで、ミスをしているのは見たまま私達、ということになる。

「ケイ、大丈夫?」
 思わずこっそりと声をかけると、憔悴しきった瞳が私を見た。
「だ……大丈夫です……普段の仕事よりちょっと、キツイけど」
 流石の彼も語尾に本音が洩れている。普段給仕の仕事で忙しくしているはずのケイだけれど、それにしても料理長の気迫は凄まじいらしい。
「――って、聞いてるのか、君たち! 二人とも、手が止まってるよ!」
「き――聞いてます!」
 無駄口を叩いているうちに、すぐに怒声が飛んでくる。数メートル先で目を光らせる先生に気圧されまいと怒鳴り返した。ふと傍らに目をやれば、今にも倒れそうな給仕の少年の姿があった。本当に、大丈夫だろうか。

「タツキ…まるで別人ね……」
 こんな気迫からあんなに美味しいお菓子の山が出来上がるなんて想像もしなかった。