小さな鍵と記憶の言葉
部屋に控える薔薇達が、おろおろと私達の間を廻っていた。
どこから聞きつけたのだろう、既に女王の間には暖房が入れられ、たくさんのタオルが待ち受けていた。
「随分降られたようだね」
ふかふかのタオルを手渡してくれながら、ローレンスが眉根を寄せて笑う。
結局通り雨だと思っていたそれはいつまでも止まなくて。仕方なく逃げ戻ってきた三人を、彼は苦笑しながら迎え入れてくれた。
「でも楽しかったわ。雨宿りしながらリラとも沢山お話できたもの」
対するソフィーナは、側にいた薔薇にタオルでぐるぐる巻きにされていた。同じように雨を避けたはずなのに私の倍くらい濡れてしまっているのは何故だろう。そう考えながら今度はケイを振り返る。彼も上着やオレンジの髪は濡れているものの、拭けば済みそうな程度だった。いや、彼は少し濡れなさ過ぎているかもしれない。
「とは言え、リラもケイも一度着替えたほうが良いね」
君は仕事に支障が出るだろう、と頷く王。蜥蜴もまた自分の様子を見渡して困惑顔だった。確かに、給仕やベッドメイクには向かない姿だ。
「蜥蜴の代わりに私がアリスを送ろう」
ソファの上にタオルを放りながら彼が言う。私は慌てて立ち上がった。
「そんな、一人で大丈夫です」
「そうも行かないだろう?」
振り返るのはローレンスの机の上。放り出されたインクペンは書き込みの途中に見える。なのに彼は、雲の上の太陽のように微笑む。
廊下に出れば、まだしとしとと雨の影が続いていた。
雲に覆われているはずなのに奇妙に明るい空。空から映った影の流れる、大理石の上。
「賑やかで申し訳ないね」
カツカツと、二人分の足音が響く。私はタオルを被ったまま。この辺りの天候は比較的暖かいので、こうして濡れていても冷えてこないので助かっている。
そうは言っても情けない姿なので、恐縮しながらローレンスの傍らを歩いていく。
「そんなこと、ないですよ」
首と手で否定の意思を示しながら、楽しいですと付け加える。雨宿りしながらのお喋りも、濡れないように建物や木の陰を渡り歩くのも、滅多にないことなのでついついはしゃいでしまった。だからこれは謙遜じゃなく、むしろ私のほうこそ謝らないといけないような気がした。
改めて、王の横顔を見る。その物腰と同じように柔らかい鳶色の髪。裁判長の補佐官という人に実際に会ったことがなかったのでこれは固定観念だけれど、いい意味でそれらしくない、包容力のある男の人だ。今日みたいに私達がきゃあきゃあと騒いでいても、一歩後ろから見守ってくれるような。この人がいるからソフィーナも落ち着いて仕事が出来るんだろうな、とこっそり考えた。
「前のアリスがいなくなったのは突然だったからね」
唐突に王の言葉が響く。思わずじっと見詰めると、ちらりと視線が返された。
誰のことを言っているのかはすぐ分かった。今頃薔薇に押し出されて浴室に向かっているだろうひとりの女性。話しかけたときは優雅で、ふと目を向ければぼんやりと窓外を眺めることの多い人。
「彼女もガーネットも私も、『あの人』を――前のアリスを良く慕っていたから。心を纏めるには少し時間が足りないのだろう。それ程に唐突で、大きかった」
雨のうねりの内側にアリスの影が滲む。私の知らないその人、私以外が知っている、その人。
存在の大きさは、城の何処にいても伝わってきた。白兎は何も言わないけれど、それでも、私と前のアリスが比べられているのは分かる。彼らも無意識なのだろうけれど、だからこそ、私は更に比較しようとしてしまう。
見合う存在になるなんて、思ってもいないんだけれど。それでも。
それでもソフィーナが気丈に振舞っているのは判るし、ローズやカードが、ふっと息を吐く瞬間を見てしまう。
どうすればいいのかな。
それを尋ねたりは決してしない。同じものになれるなんて驕ってはいない。
立ち止まる。数歩先で気づいたローレンスが、私を振り向く。
「彼女達の心はこれから君がゆっくり溶かしてあげればいい。頼めるかな」
私はゆっくりと瞬きをする。
一瞬だけ雫が途切れて、またすぐに雨音が窓ガラスを支配する。
「――はい」
胸の上には金の鍵。
微笑みの代わりに浮かべたのは、真直ぐに彼に返す眼差し。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと