小さな鍵と記憶の言葉
「どこか行きたい場所?」
ソフィーナは怪訝そうに首を傾げた。
気晴らしに散歩に行こうと提案したのは私だった。クイーンが日々執務にかかりっきりなのは知っていたし、ばりばりと仕事をこなしている割には一向に書類の山が減らないのも気づいていた。
長い間居て気づいたのは、ここには休日という概念がないということだった。
誰もが思い思いの時間に働き始め、交代制で休息を取っている。薔薇や給仕など頭数の多い役職の物は途切れずに仕事を回すことが出来るけれど、唯一の『役職就き』にあたる人たちは合間を縫って休むしかない。中には好き勝手に休む人もいるみたいだけれど、ソフィーナのように真面目で仕事量の多いひとはいつもせっせと働いている印象しかない。
午後三時を境にまとめられる仕事。それでも全ての人間が仕事をやめて部屋に戻るかというと、どうやらそうでもないらしい。
「だから散歩に付き合ってくれない? ソフィーナはどこかお気に入りの場所はないの?」
「そうねぇ」
万年筆を置いて考える素振り。やがてちらり、窓の外を見下ろした。
「じゃあ、薔薇園に行くのはどうかしら」
私がいつもお邪魔するのは三月兎の庭園で、それ以外の庭はほとんど訪れたことがなかった。
その前にまず、無数に庭園があること自体驚きだし、加えて言えば、それらの全てを《鼠》が整えているというのだから感心するほかなかった。
――いつも寝ているばかりにしかみえないのに。
きっと今も時計下の庭園で寝息を立てているだろう庭師の姿をイメージしながら、私はソフィーナにくっついて南の庭園のアーチをくぐった。傍らには蜥蜴。いつまでも迷子の絶えないのに見かねて、わざわざ道案内に白兎がつけてよこしたのだった。
「わぁ……!」
その荘厳さに息を呑む。名前も知らない、無数の品種の薔薇の花。花弁のとがったもの、ドレスの裾のようにふわりと広がるもの、何重にも重なったもの。
何より圧倒されたのは、それら全てが輝くような白色で統一されてるこいうことだった。
「まるで雪の中にいるようでしょう」
くるくると辺りを見渡してばかりの私を見て、ソフィーナが笑う。
「私は白が好きなの。全てを多い尽くしてしまうような本当の白。この世界には、雪が降らないから」
女王はかすかに目を伏せる。確かにここはいつも春のように暖かい。身を凍えさせるような冷たい風ひとつ吹かない奇妙な世界だ。
「雪が好きなの?」
「どうかしらね」
女王はくすぐったそうに目を細める。私は魅入られるように彼女の横顔を見詰める。
『覆い尽くしてしまいたいの?』
口にしかけた言葉を、静かに喉の奥へ押し戻した。
「――リラは」
「え?」
「リラは、白は好き?」
「私は……」
瞳が真直ぐに私の返答を待っている。その色はまるで、何かもっと重大なものを待ち望んでいるようにも見えた。
「うん。白も、好きだよ。でも、薔薇は赤も黄色も好きかな」
ソフィーナが息を吐く。心なしか安堵したように見えるのは気のせいだろうか。
その頬を、はたりと何かが叩く。見上げれば不安定な空からぽつりぽつり、透明な雫が落ちてきていた。鉛色の大空。私達を呼ぶケイの慌てた声。
次第に数が増え、ひとつひとつの粒も大きくなっていく。
「向こうに行きましょう」
促しながらも悪戯っぽい笑顔。
女王は私の腕を取って、ケイの待つ東屋へと急いだ。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと