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小さな鍵と記憶の言葉

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「浮かない顔だね」
 部屋に篭っていると、珍しく世話を焼きに来たのは白兎その人だった。
 いつもは私が付きまとうものだから、こうして彼のほうから会いに来てくれるのは貴重で、奇妙にさえ感じる。そういえばこうして来てくれるようになったのは、先日のティーブレイク以降のように思える。あれ以来フィンは時折、私が仕事に付き纏わない日でも顔を見せてくれるようになっている。

「何か考え事? それとも悩み事?」
 十時のお茶を淹れてくれながら、器用に私の表情を読み取る。
 そんなに暗い顔をしていたかしら。反論する気も削がれて、代わりにちらりと見上げる、薄紫の瞳。
「考え事、かなぁ」
 疑問系なのは、私自身も良く分からないから。
 答えると、一瞬だけ彼の手が止まる。それから持ち直して、
「君はいつも悩んでいるね。悩むのが好きなのかな」
「そんなはずないでしょ」
 冗談っぽく睨んで、ちょっと眉をしかめる。
 本当は自身がない。私はこの所――それこそ、《向こう》に居たときから《こちら》に来ても、ずっと何かを悩んでいる気がする。
 好きってわけじゃ、ないと思うんだけどな。

 これは、漠然とした不安だ。
 知らない場所に来て、知らない摂理の中で紅茶を楽しむ日々。周りに馴染んできたとしても、結局のところ私は異質で異物だということ。受け入れられるものとそれ以外とでは大きく違うということ。それ以外にも色々ある。まるで普通に回っている時間だけれど、ほんの少し離れた場所から見れば、確かに浮き上がって見えるその不安。

 きっと私は、アリスにはなれない。それは私が水面の向こうの人間だからということだけではなくて、器量の問題だった。
 責任と経験の不足。それから知識。自分で言っていて情けなくなるけれど。

 それなら、どうしてアリスの申し出を受けたのか?
 それはそれで、本当はとても簡単。

「ねぇ、私は何人目のアリスなの?」
 ふっと尋ねた視線の先、薄紫の輝きは揺れることすらない。
 真っ直ぐに私の喉の奥まで見るような、逃げられない眼差し。
 けれど今の私は落ち着いていた。覗き込まれるその内側が空虚なのだから、今更動揺することも見つからない。そんな感覚だった。

「聞いて何かが変わるのかな」
「心構えが変わるよ」
「それは良い方に、悪い方に?」
「それは……」
 とくとくとそそがれる蜂蜜色の飲み物の中に、私の返答は飲み込まれてしまう。
 分からない。でも、きっと、何も知らなかった時間には戻ることは出来ない。それから、私の性格を考えれば、どちら側に動いていくのかは難しくない。
 白兎は笑う。
「リラは正直だね」
 褒められていないことは一目瞭然だった。テーブルの下で、ぐっと空色のスカートを握り締める。
「けれど、それなら益々どうでも良い事だ。違う?」
 見透かすような色に見詰められて、私は、懸命に本音を隠す努力をしなければいけなかった。



 扉を開けると、室内は雑然としていた。
 昨日訪れたばかりの女王の間に居るのは勿論クイーン。けれど、彼女を取り巻くのは落ち着き無い気配。
 崩れて床に散った山の一部。鍵の開けられた扉。閉め損なっている引き戸。その中で、ソフィーナが何か探し物をしているのだと分かった。
 ――書類で溢れかえっている、と言うには、どうも空虚な感じがした。

「どうかしたの?」
 声をかければ、やっと気がついたように顔をあげる。私を見ていつものようにふわり表情を和らげる。

「ええ、ちょっとね。でもいいの」
 力尽きたように腰を下ろすソファ。力なく握り締められた紙の束。そしてか細い旋律。

「もう見つからないわ」

 諦めた独り言のように、ぼんやりと呟く。

 それでも尚、追い求める瞳。彼女に残酷な希望を与えているのは一体何なのだろう。
 探せば見つかるかもしれないという、何物にも替えがたい、ゆっくりと回っていく毒のような希望。
 喉の奥が、ちり、と痛んだ。

 それよりお茶にしましょう、と、立ち上がる女王。見渡せば今日はローレンスがいない。その代わり静かな部屋に細々とした音楽が流れている。
 金属の音色。それが女王の机の上に開いたオルゴールだと気づくまでに時間はかからなかった。

 ああ、この所為なんだ。
 この輝いた音色が、なんでもないものを甘い毒に変えている。
 ――一緒に探そう。
 口にしようとして思いとどまる。何を探しているの、と聞くのを躊躇ってしまう。決心は全て、ソフィーナの表情を見ているうちに消えていってしまう。だって彼女は、私を見るときはこうして微笑むのだから。
 それに言葉のままなのだろう。何故かそう心の中を過ぎっていく。

 彼女が捜し求めるものは、ここにはない。
 きっと私が見つけられるものではないだろうから。