小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

小さな鍵と記憶の言葉

INDEX|44ページ/120ページ|

次のページ前のページ
 

 驚いたように振り向くその影。顔馴染みの薔薇でもカードでもないけれど、こんな場所で人に会えたというだけで心強い。相手は一瞬警戒の素振りでランプをこちらに向ける。そして、相手もその視線の先に居るのがただの少女だと分かって首を傾げる。
「こんばんは。珍しいね。こんな貯蔵塔に人がいるなんて」
「貯蔵塔?」
 私は彼の明かりの元へと追いついて聞き返した。
「この辺りは使われなくなったものを仕舞っておく部屋ばかりだから。どうかした?」
「あの、実は、道に迷って」
 その優しげな微笑みに見守られながら、迷子であることを正直に伝える。彼は軽蔑する様子も無く、
「それはいけない。では、折角だからお茶でもどうかな」
「でも私、部屋に帰らなきゃ」
「けれど、お腹は空いているね」
 彼はこっそり鳴っていたお腹の音を聞き逃さずにいたらしい。私は益々恥じ入って、小さく頷くしか出来なかった。

 通されたのは廊下を横切ってすぐ傍の茶色の扉だった。中はさっき覗いた倉庫の半分もない広さ。明かりと窓と簡易本棚。事務机に備え付けの流し台、コンロがひとつ。なんとなく管理人室を連想する。
 机の上にはティーポットとカップ。夜食なのかビスケットやサンドイッチが幾つか。私は部屋にひとつしかない椅子を譲られて、恐る恐ると腰を落ち着ける。この上お茶までご馳走になるなんて、もしかして凄く図々しいんじゃないかな、と今更ながら、差し出されたマグカップを見下ろした。

 廊下より倉庫より格段に明るい室内灯。その下で彼の顔をようやく眺める。どこかで会ったことのある顔だ、そう思うけれどよく思い出せない。そうだ、何度か廊下で擦れ違ったような気がする。言葉を交わしたことは無かったけれど。
 彼のほうは覚えていないのか、そのことについては触れてこなかった。代わりにお茶を飲む私の時間の足しに、ここでこうしている経緯を教えてくれた。
 話によると彼はこの貯蔵塔を時折見回っているらしい。見回りと言っても規則的な訳ではなくて、こんな誰も来ないような場所は数日に一度しか足を運ばないのだとか。

「今日は見回りの日だったから、君は不幸にも幸運だね」
 新入りのローズも大変だ。と納得する彼をとくに諫めることはしなかった。迷子になっている小娘がアリスでもローズでも、恥ずかしいことには変わりない。
「この辺りは日が暮れるのが早いんですね」
 大人しく紅茶を戴きながら、私は思ったままの質問を彼に投げかける。この城で味わう日暮れは『早い』なんて形容できるような簡単なものでもなかったけれど(何せ、冬の日暮れよりずっと急ぎ足で太陽が消えるのだ)、それより良い言葉が見当たらないのだから仕方ない。
「それはそうだ。なんたって今は、長く続いたアリスの不在で世界自体が不安定だから」
 彼が振り向くのは、とっくに真っ暗に染め上がった窓の外。時々雲が切れて覗く月の光以外に、その闇を惑わすものはなかった。
「太陽を拝む機会が少ないのも、夕闇が駆け足でやってくるのも、長い間アリスが居なかったから。大地のうねりは随分静まってきたようだから、もう少しの辛抱だね」
 アリスの不在、つまりは、この城を統べる『女王』の不在。それがどうしてこの場所の不安定に繋がるのか、水面の向こうから来た私には仕組みが分からない。
 もしかしたら奇妙に思われてしまうかも、と不安に思いつつも、私はまた、思ったままの疑問を口にする。
「前のアリスって、どんな人だったんですか?」
「どうだろう。興味がなかったから」
 目の前の言葉を交わしたばかりの青年は、さらりと答えた。
「確かに言葉を交わしたことはあったけど。機会があれば、僕よりは《兎》や《女王》に尋ねてみるといい。立ち位置の近い彼らのほうがよっぽど彼女の事を知ってる」
「兎や女王に? そんな、無理に決まってる」
 とっさに反論すると、彼は、確かに恐れ多いかもね、と小さく笑った。
 そうですよ、と見当違いに誤魔化しながら、私の心中は複雑だった。
 
 本当はずっと誰かに聞きたかったことだ。前のアリスが、一体どんな人物だったのか。
 『温かい表情だった』とケイが呟いたのを聞いて以来、私はどうしてもこの質問を周りの誰かに聞くことが出来なかった。
 長い長いアリスの不在。やっと現れた新しいアリスの傍らに、手放しで喜ぶ多くの人たち。
 けれど中にはケイのように、懐かしく昔を思い浮かべる人がいる。
 もしかして、彼らは私と前のアリスを比べてはいないかと。
 前のアリスと違って頼りない小娘だと、嘆いてはいないか。
 そして質問をすることで、彼らが以前のアリスを思い起こすことで、それがより顕著になったりはしないだろうかと。
 だから、白兎や三月兎は勿論、薔薇や給仕の誰にも訪ねることが出来なかった。

「そうだ。君は噂を聞いたことがある?」
「噂? どんな?」
 ふいに質問をされて顔を上げる。訊ね返せば、彼の琥珀色の瞳が私を見詰める。
 そして彼が口にしたのは、誰からも聞いたことの無い意外な言葉だった。

「前のアリスの噂だよ。彼女は自らこの場所を出て行ったって話」