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小さな鍵と記憶の言葉

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「まったく、貴方というひとは」
 厨房の扉を潜ると、もうひとりの兎と遭遇した。三月兎のダミアンだ。どうやら彼もさっきの物音に飛んできたらしく、物音の原因らしき人にむかって懇々と諭しているところだった。
「割れなかったんだから、勘弁してくれよ」
 私は白兎の背中越しにその懇々と諭されている人物を見る。
「何の騒ぎなんだ……と言っても、きっと君なのだろうね、タツキ」
 二匹の兎から零れるのは溜息。その後ろから覗き込むと、大皿を拾い上げる人物が見えた。
「ああ、フィン。それに後ろに居るのは――」
 目が合った。黒目黒髪の中性的な美人さんだった。真っ白なコックコートに身を包むその人とは、今までも何度か食事の時に会った事がある。
 彼の名はタツキ。役職は《ウミガメ》、つまり、この城の料理長。
 しかし妙なのは、ウミガメを取り巻く環境だった。床にひっくり返った食器や裏返しのまな板、空の大鍋の中で跳ねる活きの良い魚。厨房というよりは惨状、戦場といってもいい。
「アリスじゃないか。こんな所までようこそ、リラ」
 タツキさん(男だろうか女だろうか、声を聞いた限りではかろうじて男性のような気もする)は、自分が怒られているのにも関わらず飄々と微笑を浮かべて歓迎してくれる。
 それにあわせて、また溜め息がふたつ。
「招いたのは貴方でしょう。あんな大きな音を立てて。今日は昼餉の時間に間に合うのですか」
「昨日よりは遅れないと思うけど……」
 そう呟きながら、大鍋の中に逃げた魚をまな板の上に引き戻した。
「昨日よりは、ではありません。しっかり間に合わせていただかないと」

 そう、私も知っている。
 味も飾り付けも申し分ないのに、調理の手際だけが散々に悪い。料理だけ目の前に出されれば、名だたるレストラン。けれどその料理が時間通りに出てくることはまずない。メニューの訂正取り消しなんて日常的。
 そんな彼にいつのまにかついた呼び名。それは……

「いい加減《偽ウミガメ》から脱出してください、タツキ」

 ダミアンの憮然とした表情を代弁するように、フィンが言い放つ。
 《偽ウミガメ》。なんて適切な呼び名なのだろうか。一体誰が呼び始めたのは分からないけれど、とてもその人を賞賛したい気持ちだ。ウミガメに似ているけれどウミガメじゃない。料理長のはずなのに、心から料理長と呼べない。溜息が効いたのか、タツキが居心地悪そうに襟を直した。
「……ディナーよりはドルチェのほうが得意なんだよ」

 たしかに、と私は首をひねる。
 彼は料理長であるゆえにこの城の食べ物を全て取り仕切っている。そして『料理の長』である限り、『女王』の口に入るものを作るのは彼の役割だ。
 夕餉のデザートも、ティータイムでテーブルに並ぶお茶菓子も全て彼のお手製。カステラにクラシックショコラにシフォンケーキ、ミルクレープ。リクエストすれば洋菓子和菓子焼き菓子生菓子、点心だってお手の物だ。しかも、どれも一言で言い表せないくらいに美味しい。
 以前薔薇の一人に教えてもらったことがあるのだけれど、その時だけは流れるような手つきで作業するんだとか。どちらかというとお菓子のほうが繊細で細やかな作業が多い気がするけれど、こういうのも得手不得手、って言うんだろうか。

「とにかく、手が足りないのでしたら薔薇や蛙に言付けてください」
「せめてアリスの昼食だけは間に合わせてくださいよ」
「ええー、でも、今はお茶会の支度をしたい気分なんだけど」
「タツキ。物事には優先順位というものが……」
「はぁ。だからいつまでも偽ウミガメなんです」
「偽じゃないって! ウミガメだって!」

 二匹の苦労性の兎と、悪びれる様子のないウミガメと、彼らの傍らで恐々としている蛙達を眺めながら。
 私は遠くで鐘の音が十二回鳴るのをぼんやりと聞いていた。