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小さな鍵と記憶の言葉

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「あれ、アリス?」
 廊下を歩いていくとケイと巡り合った。彼は仕事の途中らしく、洗い立てのシーツの山を抱えながら私に声をかけてくれた。
「《アリス》?」
 私が聞き返すと、困ったように目を細める。

「――じゃなくて、リラ、ですね、すみません」
 満足して頷く。安心したような微笑みが彼の顔にも浮かぶ。
 それにしても、すごい量の洗濯物だ。ガラガラと車を押しているのに、それにも乗せ切れなかったシーツを片腕にまで抱えている。
「大変そうだね。手伝おうか?」
「とんでもない! そんなことをしたら叱られてしまいますよ」
 懸命に手を振って意思表示をしながら彼は言う。そんなに振ったらシーツが飛び出してしまいそうで、ひやひやしながら見守る。それでも私は引き下がらない。
「でも、部屋に籠ってばかりじゃ眠いだけなんだもの」
 これは本当のことだ。白兎は私を家に帰してくれる様子もないし、かといって何があるでもない。部屋にいれば三月兎がお茶を用意してくれるけど、それ以外は暇で暇で仕方ないのだ。
「でしたら、城の中を散策してみてはどうですか? 薔薇園や蔵書室には行きましたか?」
「薔薇園に、蔵書室? 面白そう、どこに――」
 向き合ってお喋りをしていた廊下の先、彼の肩のむこうにそれが見えて、私は慌てて少年を呼んだ。
「あ、ケイ!!」
「はい?」
 突然名前を呼ばれて驚く彼の袖を引き、すぐ傍の開いていたドアに入る。きょとんとしている彼を小声で促した。
「こっち! 隠れて!」

 ケイは意味が分からないながらも私の言葉を聞いてくれる。二人で扉の後ろに身を潜ませると、すぐに足音が部屋の前を通り過ぎて行った。冷静に考えると廊下にはシーツを積んだ台車が置きっぱなしなのだから、意味があったかどうかは分からないのだけれど。
 どれでも私の心配は杞憂で『その人』は何も気付かずに通り過ぎていく。
「どうして隠れる必要があるんですか?」
 ドアから身を乗り出し、その背中を見守りながら首を傾げるケイ。私は依然としてドアの影だ。
「なんでって、なんとなくだけど」
 ケイの橙色の髪が揺れるのを見ながら、私は言う。足音がもう聞こえないのを確かめ、更に呼吸を三回数えたところでやっと廊下に出た。
 予想通り、もうさっきの『彼』の姿は見えない。

 漆黒の髪、鋭い深紫の瞳をした、彼。長い耳さえ生えていない白兎。
 彼――フィンを見たのはお茶会以来だった。あれからどれくらい経ったか分からないけれど、私が仮アリス(表向きは本物のアリス)として滞在することを決める前からすると、本当に数えるくらいしか顔を合わせていない。言葉を交わすことなんてそれよりも少なかった。

「私、絶対嫌われてると思うんだよね。いつ会っても冷たいし、何考えてるか分からないし」
 埃なんてついていなかったけれど、膝を払いながら立ち上がる。さすがにこの一角は《アリス》の敷地内なだけあって塵ひとつない。
「そんなことはないと思いますけど……」
「そうよ、絶対」
 エプロンのリボンを調えて言葉を振り落とす。彼が用意した空色のエプロンドレス。
 「何もしなくていい」。白兎は言ったけれど、だったらどうして私を《アリス》として置きたいんだろう?それすら分からないから考える。そうすると、いつの間にか眠りに落ちてしまうのだ。
 《アリス》。
 お茶会以来、彼は正式に私を《アリス》と呼ぶようになった。あの冷たい瞳と、感情の見えない横顔。湖の畔で微笑んだような気がしたのは夢だったのだろうか。

 この『お城』のことは少しずつ慣れてきた。けれどどうしても、あの白兎だけは駄目なのだ。
 分かり合える気がしない。彼が何をしたいのか分からない。
 本当に、どうして私を連れてきたのかな。


「じゃあ私、そろそろ行くね。何か面白いものがないか歩き回ってみる」
 あまり仕事中のひとと話し込むのも迷惑な気がして、私はケイと反対方向に歩き出した。
「お気をつけて。三時の鐘が聞こえたら戻ってくださいね」
 ひらひらと手を振ると、少し控えめながらも元気に振り返してくれる。
 やっぱり、同級生みたいでちょっと落ち着く。