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小さな鍵と記憶の言葉

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 好きにしていて良い、と言い残して、フィンという青年は部屋を出て行った。
 急に静かになった室内を見渡し、私はなんとなく落ち着かない気分でソファに腰を下ろす。部屋を飛び出さないのは別に彼のことを信用したわけではない。ただ、ここから逃げるにしろ助けを呼ぶにしろ、様子を窺わなければ足がかりは見当たりそうになかったのだ。
 ここが何処でこの城のような建物はどれくらいの広さなのかも、窓の外を見ただけでは見当がつかないし。

 勢い良く背もたれに沈んでみる。外の明るさからすると、日付は変わってしまっているのだろう。これが夢でないのなら、お父さんもお母さんも驚いているだろうな。家出は元より無断で外泊なんてしたこともなかったのに。ベンチに置きっ放しにしてしまった鞄やクラリネットは見つけてくれただろうか。
 そんな風に思いながらも、どこかぼんやりとしてしまうのはきっとこの現実離れした空間のせい。頭を持ち上げれば目に入る、天蓋つきのベッドやきらきらしたシャンデリア。テーブルの上の銀の燭台、頬を押し付けたソファの柔らかさ。広さも内装も西洋のファンタジー映画みたいだ。

 まるで夢の中のようで。
 今度は横になるように腕や足も投げ出してみる。充分ベッドになる大きさだ。もしまた夜が来るようなことになったら、今日はここで寝ることにしよう。
 目を閉じた瞬間、抜群のタイミングでドアがノックされて慌てて身体を起こした。

 ――コンコン。

「は、はいっ」
「失礼致します」
 反射的に答えると、観音開きの扉が開いて声が入ってきた。
 そこに見えたのはひとりの男性。さっき『フィン』ではなかったものの、やはり見覚えはない。しかし彼もまた、私を見るなり丁寧に頭を下げた。

「初めまして、貴女が新しい《アリス》ですね」
 燕尾服に身を包んだ、灰色の髪の男だった。年老いているのかと思ったけれど、そうではない。穏やかで柔らかな声。顔つきは穏やかで、年齢を示す皺も少ない。どうやらもともと髪の色素が薄いらしい。

「貴方は?」
 私はスカートを調えると、その微笑みをこっそり見つめ返した。
「私は《三月兎》のダミアン。《薔薇達(ローズ)》を統括する兎でございます」
 また『兎』だ。つい眉根を寄せながら言葉だけは口にするのを留める。男性は表情を崩さずに、完璧な慈愛の笑みで私を迎えた。
「身の回りの世話を仰せつかっております。お困りのことがありましたら、何なりとお尋ね下さい」
 そうして再び頭を深く下げる。

 尋ねたいことは山ほどあった。なんといっても、私を取り巻くこの環境はお困りのことだらけなのだから。
 まずどうしてここに居るのかを知りたいし、ここがどんな場所なのかも知りたい。フィンが言っていることも良く分からなかったし、彼が私に何を求めているのかも理解できない。だいいち、後で帰してくれるのなら今帰してくれてもよさそうなものなのに。
 けれど結局上手く言葉にできなくて、私は長いこと黙ったままでいるしかなかった。