小さな鍵と記憶の言葉
ダミアンという人が挨拶を済ませ、さあ出て行くのかと思ったのに、何故か変わらず部屋に留まっている。
そればかりか、目の前には着々とティータイムの準備が整っていく。落ち着かない。席を立ってもいいのだろうか。これはもしかしたら、もしかしなくても、私のために用意されているんじゃないだろうか。私はそわそわしながら自分の肩越しに外を眺めて時間を潰した。
「お好みの茶葉はございますか」
「ええと……よく分からないので、おまかせします」
「畏まりました」
そんなもやもやしたやり取りにも関わらず、彼は困り顔ひとつ見せずに紅茶を出してくれた。なんとかという茶葉のミルクティーらしいけれど、緊張していたのもあってよく分からない。とにかく、それを有難く戴くことにする。琥珀色のきらきらしたそれを見つめる。一口つけると、香りで胸の奥がやわらぐようだった。
「あの、どうしてフィン本人が出てこないんですか?」
紅茶で心が落ち着いて、私はあらためて彼に尋ねた。さっきの《白兎》が私を連れてきたのに、放っておくとはどういうことだろう。万が一逃げるとか騒ぐとか、考えなかったのだろうか。私の疑問に《三月兎》は微笑む。
「あの方は白兎ですから」
答えになっているようでなっていない答えに、首を傾げるしかない。
「そうね……まずはそこから聞いてもいい? 貴方達の言う白兎や三月兎って何ですか?」
「何かご不明な点が?」
「ご不明な点だらけです」
とっさに出た軽口に、三月兎がクスリと笑う。
「ええと、第一聞き慣れないし。愛称か何かなんですか?」
「いえ、愛称ではなく役職でございます」
《三月兎》ダミアンが答える。控えめにテーブルの側に立ったまま。落ち着かないけれど、印象としては先刻のフィンよりずっと親切そうだし、悪い人には見えない。
「呼び名、と申しましょうか。それぞれの役割を持つ者の一般的な呼称です。兎というのは言い換えれば『執務』、三月や白は主にどの職を担っているかということになります」
「じゃあ三月兎は執事長?」
私はテーブルの上を見渡しながら聞く。手際の良さといい、物腰の柔らかさといい、本物の執事はこういう感じだろうかと考えたのだ。
「少し古い言い方ですが、そうですね。なるほど、向こうの世界では確かにそちらのほうが一般的かもしれません」
他にも彼の口からは次々と『呼称』が飛び出した。並べるだけでなく丁寧に、議長が《帽子屋》、裁判長が《女王》、先程の薔薇《ローズ》は給仕のことを指すのだと教えてくれた。
「本当に『アリス』ね。聞き覚えのあるキャラクターばかり」
私は感心の溜め息を吐きながら、昔に読んだその小説を思い出していた。
不思議の国のアリス。続編は鏡の国だった気がする。読んだことはある気がする。確か、兎を追いかけて――と、あらすじを思い出そうとして諦める。いくつかの登場人物の他には、兎を追いかけて穴に落ちる場面と、何かの裁判にかけられる最後しか思い出せない。
確かに知っているはずなのに。さて、一体どんな話だっただろう。兎を追いかけたアリスは、どうやって終焉を迎えるのだったろうか。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと