小さな鍵と記憶の言葉
彼の言葉をわざと聞き流すようにして部屋の中へ戻った。それともこれは夢で、本当の私はもしかしたらあの公園で転寝でもしてしまっているのかもしれない。それなら夢の線が強くて……けれど、あの広大な敷地をどう説明すればいいだろう――
頭の中で辻褄を合わせるのに必死になっていると、変わらず彼は独自の言葉を並べ続けた。
「ここは至って平和だ。時間がゆっくりと流れ、戦争もない。だから滅多に滅びることはない。ある一つの条件を除いて」
返事をしない私の背中を彼の声が追いかけてくる。ふたつの理解できないこと。それらを結びつける答えが、彼の言っている世迷言ならば説明できてしまうという動揺が心の中に生まれる。その不安は、少しずつ現実を求めて彼のほうへと引き寄せられている。
だから、訊ねずにはいられなかった。
「一つの条件って、何」
立ち止まってしまった足と、答えを欲してしまった言葉。しかし彼は変わらない調子で続けるだけ。
「今は言えない。けれど、それを消すことは決して難しいことではない。技術も力も無くても、決意だけあれば敵う」
「決意?」
「そう、決意」
怪訝に振り向いた先の肯定に、思わず泣きそうになった。
「そんなもの、私と一番かけ離れた言葉なのに」
決意、責任。
重くて両手でさえも抱えていられないもの。
私は静かに過ごせればそれでよかった。人と一緒に居るのが嫌いなんじゃない。人の上に立つとか、責任を負うとか、そういうことが苦手だった。もっと私より適任な誰かが指揮する安定した空間で、クラリネットを吹いていられるだけで幸せなのに。
勿論、それだけでは駄目なのだと常識としては知っていた。けれど私は子供だから。『子供』を理由に、それと向き合うことを先延ばしにしてきた。
せっかく一瞬だけでも『それ』から逃れることが出来ていたのに。
それを、彼は要求する。壁を越えることを。
「何もしなくていいんだ」
再び背を向けようとしたその時、彼が投げかけてきたのは違う言葉で。
「何もしなくていい。居てくれるだけでいい。少しの間でもここに居るという決意があれば『アリス』は成り立つんだ」
「どういうこと」
「世界を成り立たせるということは、君の思っているよりずっと易いものだってこと」
矛盾している、と胸の奥で呟く。
決意を持てという言葉と、一方で何もしなくていいという甘言。
私は人の上に立てと言われているのではないのだろうか。そんなに都合のいい立ち居地が、この世に存在するとでも?
「これを」
何も返せないでいると、彼は――《白兎》は私の手を取って、その掌の上に何かを乗せた。慌てて逃げようとする指を、今度は兎が静かに捕まえた。振り払おうと引っ込める腕。それさえ、弱くても確かな力で押し留められて。
ひやり、と、僅かに掌が覚える。金属の冷たさ。それは随分小さい。驚きはしたけれど、危ないものだとは思わなかった、だから仕方なく、彼が渡そうとするものを握った。そうして、顔のすぐ傍まで持っていって、確かめるように指を開いていく。
緊張で白くなった掌にあったのは金色の小さな金属片だった。正しくは何かの形をした。ちゃんと人間の手によって加工された小さな塊。それを何と呼ぶかはすぐに分かった。
「これは……鍵?」
「そう。とても大事な、ね」
それはそれは小さな鍵だった。飾り棚の一角か小物入れの装飾ものだと言われれば納得してしまいそうな、いっそのことアクセサリーだと言われても疑わないような、華奢できらきらした金色の鍵。糸を通すように頭の部分に空けられた穴には、首に下げられるくらいの長いチェーンが通されていた。
「これはアリスの持ち物だよ。君は鍵を握る存在。この世界を閉じようと続けようと、君の意思次第」
私は、はっと顔を上げた。ずっと避けてきた紫色の瞳と目が合う。
深い深いアメジスト色。それがとても真っ直ぐなのだと、私はやっと気付くことができた。やわらかな、微笑。
「快諾して貰えるとは最初から思っていないよ。ただ、いずれにせよすぐ帰すことはできない。準備を揃えるにはまだ時間がかかるし、全てが揃えばちゃんと元の世界に戻してあげる。だからそれまで、アリスになるかどうか考えていて」
ふいに、湖の畔を思い出す。この場所に連れてこられる少し前。気を失う前に、彼と初めて会った『場面』のこと。
あの時に見た微笑みは、今この瞬間のものとよく似ていた。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと