小さな鍵と記憶の言葉
バルコニーに出て、その景色を見ていた。
私が覗き下ろすこの部屋は、高さにすると4、5階くらい。どうやら此処は大きな建物の一角で、見渡す限りの全てがその敷地内だということが分かった。競うように連なる塔、入り組んだ外壁は真白い石造りで、本で見たドイツの古城に似ていた。
真下には薔薇の咲き揃った庭園が見える。小さな噴水に手入れされた生垣。その果てには高い壁がそびえていて、どうやらそれは私の居る建物を取り囲んでいるらしい。
ここは何処なんだろう。どのくらい眠っていたのか分からないけれど、まさか、本当にあの噴水を抜けた先なのだろうか。
日付を確認するにも、家に連絡するにも、携帯電話も手帳も全て鞄の中だ。
「意味が、分かりません」
私は壁の向こう、遠くにうねる草原を睨みながら、強く拳を握った。後ろで黒髪の青年が私の言葉に呼応する。
今度は自分でも口にしてみる。女王。アリス。どっちにしたって全く現実味のないふわふわした言葉。ファンタジー一色のこの風景で、やっぱり御伽噺めいた言葉だった。はぁ、と溜息を吐く私。数歩後ろの気配がやんわりと付け加える。
「言葉の通りだ。この国を統べる存在になってほしい」
「この国って、日本? のはず、ないですよね」
「そう。君が纏めるのはこの場所。この国、ワンダーランド」
『ワンダーランド』。まるでどこかの遊園地のようだ。それともここもそんな場所のひとつなんだろうか? あんな広大な草原が日本にあるだろうかと考えながら、意地でも振り返ろうとはしなかった。
「……家に返してください」
「それは難しいかな。扉を開くのは重労働だ。だいいち条件が揃わない」
「じゃあ警察に電話します」
「思ったよりも強情な子だね」
少し離れた背後で、ふっと息を溢す気配がした。
「無理だと言っているだろう? 返せないし、帰ることもできない。別に意地悪で言っているんじゃない、そういう決まりだ」
決まり、という言葉に一瞬だけ反感を憶える。
決めたのではなく、決まっているのだと彼は言う。仮にこの『テーマパーク』のルールにだとしても、白兎の言葉には反抗的な響きが籠っている。まるで、“自分達ではどうにもできない”と言いたいかのように。それとも、ただ言い逃れるための手段なのか。これが誘拐なのかなんなのかも分からないけれど、とりあえず、今すぐ返してくれる気はないらしい。
声が私の隣にやってきた。バルコニーの手摺に並ぶようにして手が置かれる。しかし彼が見るのは目下に広がる庭園でも遥か遠くの草原でもなく。
「掻い摘んで話そうか。ここは、君の住んでいた世界とは別の場所だ。別の次元、別の時間。例え君がこの城を抜け出しても、この空が続く先どこまで行っても君の世界の何処にも辿り着けない。残念ながら、証明は出来ないけど」
別の場所、別の世界?
まだ頭はぼんやりするけれど、それをすんなり受け入れられるほど、私は幼くなんてない。
異世界とか異次元とか、小説や映画の中みたいなふわふわした言葉を並べられても、知らないものを納得することは大人になればなるほど難しい。そう言う意味では私は随分大人になったんだと、妙に感心してしまう。
そうだとしても、やっぱり私が何故ここに居るのかを理解することも出来なくて。
「元々ここと向こうは隣り合わせではあったんだ」
私の目を覚まさせようとするように、言葉を小さく砕いては言い聞かせる。名前は――そう、確か、フィンと名乗った青年。
「寄り添うように近くても、交わったり触れ合うことはない。だから似ていても明らかに違う。違うからこそ、頑丈で、脆い」
視線が横顔に突き刺さる。それに気付かないふりをして、手摺から手を離す。並んで庭を見下ろしたい気分にはなれそうにない。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと