小さな鍵と記憶の言葉
アリス。その名前を口の中で反芻してみる。
それは私の名前じゃない。そうだ、幼い頃に読んだ物語に出てくる女の子の名前だ。白兎とアリス。世界的にも有名な物語。何かの謎かけか、隠喩か、彼は何を言おうとしているかが分からない。
もしかして彼は、単純に私と誰かを取り違えているんじゃないだろうか。そう思いついて、控えめにも首を振ってみる。
「私はそんな名前じゃありません。私の名前は」
「リラ」
逃げるように窓際に身を寄せる、その傍らに名前を呼ばれる。肩に不必要な力が入った。
紗幕の向こうに相変わらず立ち続ける青年。すれ違い様に振り仰いだその瞳は真っ直ぐに私を見ていた。
――どうして。
「リラ・キラサギ。『名前』なら知ってるよ。ようこそ、水面の向こうの少女」
動揺を隠せない、聞き間違いでもない。少なくとも彼は私を知っているんだ。わたしの名前を、存在を。私は彼を知らないのに。
警戒の視線を向けたままだというのに、彼は一向に怯まなかった。それよりも益々、私に外交的な微笑みを返す。まるで怯える迷子の子供をあやすように。
柔らかく、そして穏やかに。心の内を隠した微笑みだ。そう感じた。
「そうだね……僕の名前はフィン。頼みがあって君をここに連れてきた。覚えていないかもしれないけど」
憶えている。あれが夢でないのなら。私は黙ったまま、喉の奥で肯定する。勿論彼に聞こえるはずはない。
冷たい水と、暖かい腕。噴水の向こうに見えた灰色の空。
彼は少しだけ肩を竦めた。やれやれと、怯えきって名前も言えない迷子を前にして。それがとても恨めしい。私が迷子なのは私のせいじゃないのに。
けれどその意識が、本当はどこか違うところにあるような気もして。
何故、だろう。
幼子をあやす傍らで、反対に突き放すように微笑を浮かべる。此処に連れてきたのは彼自身なのに。
それから、その深紫の瞳で私を見つめて言う。
「君にはアリスになって貰いたいんだ」
「あ、アリス……?」
それがどうやら『名前』でないことに、その瞬間気がつく。彼が欲しがっているのは何か別のもの。きっと口振りからして、仕事か役割か、そういったもの。私はひどく広い部屋の大きな天蓋ベッドの脇で、小さくなって彼の言葉を聞いていた。
「君の国の言葉に置き換えるなら、そう、『女王』だよ」
女王。とっさに繰り返すこともできない現実離れした言葉。
夜色の瞳が麗らかに輝いたのを、私は後にも先にも忘れなかった。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと