小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

小さな鍵と記憶の言葉

INDEX|12ページ/120ページ|

次のページ前のページ
 

 アリス。その名前を口の中で反芻してみる。
 それは私の名前じゃない。そうだ、幼い頃に読んだ物語に出てくる女の子の名前だ。白兎とアリス。世界的にも有名な物語。何かの謎かけか、隠喩か、彼は何を言おうとしているかが分からない。
 もしかして彼は、単純に私と誰かを取り違えているんじゃないだろうか。そう思いついて、控えめにも首を振ってみる。

「私はそんな名前じゃありません。私の名前は」
「リラ」
 逃げるように窓際に身を寄せる、その傍らに名前を呼ばれる。肩に不必要な力が入った。
 紗幕の向こうに相変わらず立ち続ける青年。すれ違い様に振り仰いだその瞳は真っ直ぐに私を見ていた。
 ――どうして。

「リラ・キラサギ。『名前』なら知ってるよ。ようこそ、水面の向こうの少女」
 動揺を隠せない、聞き間違いでもない。少なくとも彼は私を知っているんだ。わたしの名前を、存在を。私は彼を知らないのに。
 警戒の視線を向けたままだというのに、彼は一向に怯まなかった。それよりも益々、私に外交的な微笑みを返す。まるで怯える迷子の子供をあやすように。
 柔らかく、そして穏やかに。心の内を隠した微笑みだ。そう感じた。

「そうだね……僕の名前はフィン。頼みがあって君をここに連れてきた。覚えていないかもしれないけど」
 憶えている。あれが夢でないのなら。私は黙ったまま、喉の奥で肯定する。勿論彼に聞こえるはずはない。
 冷たい水と、暖かい腕。噴水の向こうに見えた灰色の空。
 彼は少しだけ肩を竦めた。やれやれと、怯えきって名前も言えない迷子を前にして。それがとても恨めしい。私が迷子なのは私のせいじゃないのに。
 けれどその意識が、本当はどこか違うところにあるような気もして。
 何故、だろう。
 幼子をあやす傍らで、反対に突き放すように微笑を浮かべる。此処に連れてきたのは彼自身なのに。
 それから、その深紫の瞳で私を見つめて言う。
「君にはアリスになって貰いたいんだ」
「あ、アリス……?」
 それがどうやら『名前』でないことに、その瞬間気がつく。彼が欲しがっているのは何か別のもの。きっと口振りからして、仕事か役割か、そういったもの。私はひどく広い部屋の大きな天蓋ベッドの脇で、小さくなって彼の言葉を聞いていた。

「君の国の言葉に置き換えるなら、そう、『女王』だよ」
 女王。とっさに繰り返すこともできない現実離れした言葉。
 夜色の瞳が麗らかに輝いたのを、私は後にも先にも忘れなかった。