小さな鍵と記憶の言葉
ひやりと厳重な扉を引けば、その先には地下へと続く階段が待っていた。暗闇に向けて伸びていく灰色の階段。二人が並ぶので精一杯の螺旋階段は片側に手摺がなく、私達は奈落へと落ちないように壁伝いに下っていくしかなかった。
底から届く眩いほどの青白い光が間接的に階段を照らしていた。怖くて底を覗くことは出来ない。けれど刻々と、針と振り子の音が当たりを広く支配していた。
延々と、ぐるぐると降りていく。踵の音がやけに響く。それなのに振り子の音は、それ以上に穴の底から上がってくる。
十分か、三十分か、一時間か。
螺旋と光に感覚を奪われながら、やっと平坦な床に到達した。そして私は、その不思議さに息を飲んだ。円形の部屋は同形のプールを囲うように広がっていて、青白い光は滔々とその中から溢れている。ずっと聞こえていた時を刻む音さえ。横幅は五メートルくらい、水深は一メートルもない。そのプールの底を覆い隠すように、十二個の数字と長短の二本の針が互い違いに廻っている。
「これは、大きな――時計?」
プールの淵に両手を押し付けながらその水面を食い入るように見る。私の腕よりも太い鎖でぐるぐると拘束され、針ばかりが狂ったように動いている。
短針は前に、長針は後ろに。そして文字盤はガタガタと地震のように揺れ、今にも何処かへ飛び出して行ってしまいそうに鎖を引っ張っている。
「時間を刻むものだよ。この世界を動かしているもの。ヴァンダースナッチ」
白兎の声を押し隠すほどに、一瞬それが大きく暴れた。私は慌てて後ずさる。顔や髪に飛んできた水飛沫が電気を帯びたようにビリビリと染みる。痛い!思うまもなく飛沫は何事もなかったかのように蒸発した。
「この時計の螺子は、自分の命を持つ者でなければ巻けない。僕達のような置物や装飾品は、人々に守られなければ生きていけないから、触れることは出来ない」
白兎は水飛沫を浴びたことも気にせず、水の中を見下ろしている。過去も未来も刻めない哀れな時計を、まるで自分自身の苦しみのように見詰めている。
「でも、螺子巻きの時間は永遠ではないから」
ちらりと振り返った瞳も、また氷青色を帯びている。
「そのたびに、外から来たアリスがこの螺子を巻いてくれなければ、僕達の時間は止まってしまう。誰かが僕達を『見て』いてくれなければ、僕達はたちまち薄れて消えてしまう」
まるで懺悔だ、と思った。仕事とは言えあんなに笑みを絶やさなかった彼が今は一瞬も優しさを見せないまま。表情には冷たい戸惑いが多い。
「だから私を呼んだんだね」
私は静かに尋ねる。白兎は黙ったまま、視線だけを返す。
「螺子を巻いてって、頼めばよかったのに」
「鍵は、使うほど離れられなくなるから」
ゆっくりと首を左右に振る。まだ後悔を携えたままの口元が、滔々と言葉を紡いだ。
「この世界に本当に息を吹き込めば、この世界と君の魂が繋がってしまうことになる。生きているうちは道を開けばいいけれど、君が寿命を終えたあとも、永遠に鍵と共にここに縛られることになる。二度と人間として自分の世界には戻れない」
「戻れない?」
「骨董品の一部になるということさ」
自嘲的な微笑が、見ているだけで辛い。
フィンは最初から、きちんと私と彼らを分けていた。初めの内に感じていた一定の距離の意味を、今知る。
私をここに引っ張ってきたときから、フィンは世界の終わりを知っていた。変えられない未来として受け入れていた。だから私がアリスになることを強要せず、帰り道を示してくれた。きっと、自分の最初で最後の我侭として。
「それでもいい」
「リラ?」
とっさに口を衝いていた。丸く見開かれた目が懸命に私を捕まえている。なんて馬鹿なことを言うんだろうと思ってるに違いない。
襟の下に隠していた鍵を引っ張り出した。いつの間にか鍵もまた青白い光の帯を纏っている。
思いつきでも何でもなかった。殆どを知らないまま此処に来たけれど、この世界にもう一度たどり着けた瞬間から、心のどこかで決めていたことだった。
「あなたは此処にいるもの。あなたと一緒にいられるなら、それで構わない」
言ってから、なんだか愛の告白みたいだなと気恥ずかしくなる。ああ、でも、あながち嘘でもないかもしれない。だって、彼も言っていたじゃない。愛情を注がなければ、彼は存在できないって。
「私はフィンに助けられたんだから。命をかけて恩返しさせてよ」
ちょっとだけ、苦し紛れに笑ってみる。ふふふ、と、私の照れ隠しに気付いたのか、フィンも同じようにして笑顔を見せてくれた。
「きっと、君は後悔するよ」
「しないよ、絶対に」
私は、アリスになる。未熟なアリスでも、役立たずのアリスでもいい。偶然選ばれた無意味な存在だとしても。
それでも、今の私に出来ることなら、それを望む。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと