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小さな鍵と記憶の言葉

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 もう一度白兎を呼ぶ。ずっとずっと夢の中で、頭の中で呼んでいた名前。私の声は教室ほどの空間に大きく響いて、一番奥に背を向けて立っていた誰かが、驚いたように振り返った。

「リラ?」
 まるで夢を見ているかのような、ぼんやりとした表情。それが一瞬ふわりと綻んで、それから、みるみる現実に引き戻されて、動揺する。
「どうして……君が、ここに」
 私が駆け寄るとゆるく首を振った。大儀そうな動作は彼らしくなく、もしかしたら具合が悪いんじゃないかと心配が膨らんだ。
「戻ってきたの。みんなはどうなっちゃったの? 廊下のあちこちにある、あれは――?」
 見てしまったんだね、と力なく笑った。驚いただろう?その目が問いかけてくるけれど、私はそれに首を振って遮る。
「どうもしないよ。魂が……時間が途切れて、器の姿に戻っただけ」
「でも、クリスはなんともなかった」
「彼はチェシャ猫だから。消えるのも現れるのも自分次第なんだ」
 堪えるのを諦めたようにずるずると腰を折る。それからふうっと大きく息を吐いた。私は彼の傍らに膝をつく。重たそうな瞳が微笑んで、私を見る。

「彼に会ったんだね。よく、ここまで来られたね」
「『気が変わった』って言ってた。よくわからないけど」
「そうか。さすがは猫といったところかな。猫は一概に気紛れだ」
 気のせいだと思うけれど、一瞬猫の声が聞こえた気がした。褒め言葉だね、と得意げに笑う声が。睨むように辺りを見渡しても、やっぱり面白がり屋の姿はない。
 苦しげに溜息を吐くフィン。多分、彼の時間も残り少ないのだろう。彼は時を計るものだから暫くは自分で時間を管理できる。それでも、動き続けるには限界があるに違いない。例えば、発条(ぜんまい)の動力が尽きるように。

「また会えるなんて思ってもなかったよ」
 話しかけるときばかり、フィンは努めて平然としたふりをしてみせた。それが嫌で、私は小さく首を振った。
「戻ってこないなんて一言も言わなかったでしょう?」
「でも」
「答えないで」
 掌を捕まえると陶器のように冷たい。かすかに指先が疲労で震えている。時間がなかった。いつまでも彼を、彼達をこのままにしておきたくない。

「教えて。元に戻すには、どうすればいいの」
 私よりひとまわりは大きなその手を温める。どちらに驚いたのか、両方なのか、彼は目を丸くした。予想していなかった言葉だなんて言わせない。その顔に不安と戸惑いと喜びが順々に巡る。喜びを必死に押し隠そうとしながらも、私を懸命に追い返そうとする様子も。

「私、分かったことがあるの。貴方も、城の皆も、忘れたくない。ずっと一緒にいるなんてできっこないって知ってるけど、それでも、少しでも貴方達の手助けになりたい」

 やっとフィンの指先がじわり温かさを持つ。紫の瞳は食い入るように私へと注がれる。信じたいという気持ちと、覆すことを恐れる気持ち。
 やっぱりフィンは真面目だ。私よりずっと。誰よりも器用に見えて、実際は自分を一番後回しにして小さな幸せすら逃がしてしまう。
 私の知らない過去も、以前のアリスのときも、今も。その性格を見極めることが出来るくらいには傍に居たのだから。
「お願い。もう一度皆に会いたい。今度こそ、アリスになるって言いたい。だから、この世界を平和にする方法を教えて」
 葛藤に視線が揺れる。フィンは何かを言おうとして、すぐにまた口を閉ざした。私は黙って彼の答えを待った。口を挟んだらそのまま飲み下されてしまう気がして。
 たっぷりと十秒待ってから、白兎が顔を上げる。

「螺子を巻くんだ。時間が止まってしまわないように」
「時間――」
 彼は小さく顎を引いた。私の復唱に対して、そうだよ、と強調を示す。
「螺子は何で巻くか、知っているね」
「うん。大丈夫」
 私は満面の笑みと共に、得意げに首から提げていたそれを彼に見せた。白兎は一瞬目をぱちくりとさせたけれど、すぐに何かおかしかったようで、くすりと忍び笑いを零した。

「じゃあ行こう。一番下へ――地下へ」

 そうして私の手を引いて立ち上がる。
 目の先には、鋼鉄製の暗い扉がひとつ。