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小さな鍵と記憶の言葉

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 青色の水面から顔を出した瞬間、もしかしたら間違ってのではないかという不安が私の中を支配した。
 涙の海の岸。
 斑色に染まった空と、色褪せた大地。その向こうに真っ白な城壁を見ても尚、ここがあの世界だという確信が持てない。

 それはまさに忘却の国と言うような。
 草原の躍動は大波のように荒れ狂い、城下町の外の壁は『街』を保たせるので精一杯のように見えた。私は、あんなに賑わっていた市場、今はゴーストタウンのように煤けた通りを駆け抜ける。
 誰もいない。息を潜める気配すら感じられない。時折軒先に食器や小物が忘れられたままになっているのを見るくらいで、誰一人すれ違うこともなかった。
 何があったんだろう。私は、どれくらいこの場所から離れていたんだろう。

 とにかく、白兎に会わなきゃ。そんな一心で街の中を急ぐ。
 けれど駆け寄った門には苛立ちを憶えるしかない。門番の姿がない――これじゃ、城に入ることも出来ない。

「誰か! 誰かいませんか! カードでも薔薇でもいいから!」

 右の拳を叩きつけても、分厚い扉を揺らすことすら叶わない。中に誰かいないだろうか、咽そうになりながら、私は何度も何度も呼びかける。

「誰か!」

『ネズミかな』

 突然、私の叫びに静かに応じる声が聞こえた。驚いて振り返る。何せその声は門の向こうからではなく、私のすぐ後ろから聞こえたから。
 その人には見覚えがあった。へなへなと座り込みそうな自分の足を叱りながら、それでも見知った顔に会えたことで小さな安心感を抱えた。

『違うね。女の子だ』
「クリス……!?」
 琥珀色の髪と瞳。いつもは埃っぽい本の森に潜んでいるはずの猫が、すぐ傍に立っていた。
『やあリラ、久しぶりだね。てっきり帰ったと思っていたけれど、僕の思い違いだったかな』
 彼の暢気な口振りに泣きそうになる。こんなに荒んだ世界の中に居て、クリスティの姿は以前と何も変わらなかった。ただ唯一、その輪郭を縁取ったかのように色褪せた世界から浮き出して見えた。私は再会を喜ぶことも惜しんで彼に尋ねる。
「これは……どうなっているの」
 恐怖と安堵から声が震えている。猫が『落ち着いて』と笑うので、深呼吸を三回繰り返してからもう一度彼を問いただした。
『終わるのさ。全てが』
 猫が興味なさげに胸元のリボンタイを弄る。欠伸をかみ殺して耳をかく自由さはまるで本当の猫を見ているようだ。けれど私は、彼ほど冷静ではいられない。

「終わる? 何が?」
『白兎が決断を下した。世界は閉じ始めているんだ。アリスが居なくなってから、空には太陽が出なくなった。住んでいたモノタチの存在も薄れ始めている』
 欠伸をもうひとつ。私はというと――到底寛げる話題ではない。
 閉じ始めている? 終わりを迎えようとしている?
 それは正にガーネットが望んでいた通りに。けれど、フィンはそれを良しとしなかったはずだ。アリスという摂理を守り、この国の形を守ろうとしていたはずだ。 
 それなのに、どうして彼が。彼は一体何を決意したというのだろう。

「どうして。行く末を決めるのはアリスのはずでしょう」
『そうだとも。けれどもう、アリスはいない。鍵とともに城から遠ざかってしまった』
 その目が真っ直ぐに私を見詰めた。射抜くような琥珀色が、光を纏って金色に輝く。
『アリスは帰ったのさ。兎の穴を抜け出して、現実の世界へ戻っていった』
「でも、私はここにいる」
『そうだね。何故だろう? 現実と夢は、綺麗に分かれたはずなのに』
 どこかでガラリと瓦礫の崩れる音がした。はるか頭上から。城壁の高さを通り越して更に上。もしかして、空が崩れた音なのかもしれない。
 来て良かったと強く思う。間に合うことが出来るかもしれない。世界の終わりも、この国の行く先も、たくさんのひとたちも。鍵とアリスが揃えば、あるいは。
 私の心を読み取ったのかもしれない。今まで関心のなさそうだった彼の瞳に、ふいに好奇心の色が移った。関心と興味。それが何によって駆り立てられたのかは、私自身には分からない。

「迷いし少女よ。もう一度尋ねよう」
 刹那、空中を掻くように右手を振りかざした。
 見えない何かを首にまく仕草。何かを剥ぎ取ったように、何かを羽織ったように。彼の輪郭が日常に元通り馴染み、反響していた声がやけにクリアに聞こえた。今度は、はっきりと。

「見たことのない子だね。名前は?」

 それは猫のような全てを見透かすにやにや笑い。

「私は……」

 自ら望んで口に出すのは初めてだったように思う。私は最初から選択を誤魔化して、あまつさえ白兎の約束に甘えていた。

 だから、今度こそ答えを出す番だ。たとえ未熟なままでも、この城を左右するアリスの意思が必要だった。
 私は胸を張って、ずっと言うべきだった言葉を、強く発した。

「私はアリス。この世界の《アリス》」

 猫の微笑みが一層深く、優しくなった。