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小さな鍵と記憶の言葉

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「莉良?」

 名前を呼ばれて我に返った。
 辺りを見渡すと、空にはいつの間にか滲み出した橙色、非常階段のクリーム色も僅かにその色が移っていた。手元にはクラリネット。放課後の部活の練習の最中。私の顔を覗きこむようにして香奈が首を傾げている。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
 なんだか懐かしい声だ。何だか変な感じがする。本当の私はこうして毎日顔を合わせている相手なのだから、忘れるはずはない。けれど、あの長い夢の後に聞く香奈の声は、何年も何ヶ月も久々に聞いたような錯覚を憶えた。

「なんでもないよ。ちょっと、考え事」
「そう? それならいいけど」
 曖昧に笑う私を心配そうに見つめる友人。その瞳がとても嬉しくて、くすぐったい。
「ミーティング始めるってさ。音楽室行こう」
 ガラス戸を押し開ける。顔を上げるとちょうど、正面の教室から出てきた七瀬さんと目が合った。彼女は何も言わない。ただいつもの猫のような目で私を睨む。ううん。睨んでいると思うのは私のせいだ。彼女はただ、じっと私に目を向けるだけ。
「――なにかしら」
 私の様子が変だったのか、七瀬さんは少し不快そうに眉根を寄せる。それに慌てて首を振った。
「ううん。なんでもないよ」
 彼女の端整な顔に、益々怪訝な色が広がる。どちらかというと、私に気を遣っているようにも見える。そして、彼女が口にしたのは思わぬ言葉。
「無理はしないでね」
 擦れ違いながら、思わず聞き返す。けれどそれ以上は何も言ってくれなかった。
そんなに顔色が悪いだろうか。誰にも気付かれないように、私はこっそりと苦笑した。

「ありがとう」


「文化祭まであと一ヶ月を切りました。今後は全体練習だけでなく各パートの微調整も心がけてください」
 グランドピアノを囲むように集合し、私達は中央に立つ生徒の話に耳を傾けていた。カレンダーには日増しにバツ印が増えていて、10月の後半にある大きな花丸めがけて進んでいた。
「それから、そろそろ新部長を決定する時期でもあります。今年も例年通り投票を念頭に置いて皆で決定していければと考えています。自薦他薦は問いません」
 推薦者はその理由を、自薦者はその自信の程をスピーチの形にまとめてください、と、今週の部長代理が顧問からの連絡を伝えた。私はそれをぼんやりと聞いていた。と、クラリネットの後輩がにこにことこちらを見ている。その唇が、ファイト、と動いたのがよく分かった。
 こちらはこちらで、まだ問題は解消されない。それでも。
 それでも、以前とは違う心の軽さがあることにも気付いていた。
 全体練習が終わって、音楽室を抜ける。いつもならもう少し自主練習をしていくところだけれど、昨日の今日ではどうしても、そんな気持ちになれなかった。
 どこかで、一人で練習しよう。近所の公園なら、人もいないし大丈夫かな。

 昇降口を出たところで瑞穂くんと鉢合わせた。どうやら彼も部活が終わったようで、今まさに帰るところらしい。とっさに声をかけると、瑞穂くんもまた小さく頷き返してくれた。
「お疲れ。一緒に帰るか?」
 思わぬ提案に驚きながら、そうして言い表せない感謝を抱きながら、私は首を振る。
「ごめんね。ちょっと、寄りたいところがあるから」

 やっぱり、どうしても忘れられない。あれが夢だとは思い切れない自分がいた。
 自分がどうしてこうも落ち着いていられるのかも、よく分からないけれど。仕方がないのだ。私が向こうに行ったのは白兎に引きずり込まれたからで、私から穴に飛び込んだ訳ではない。
 あそこに向かって何が解決するかも分からないけど、それでも、意識ばかりはその場所へ向かっている。
 穏やかで平穏な日常。まるで大切な忘れ物をしたみたいに。

 私はひとり、校門の外へ歩み出る。どこかぼんやりとしたまま。
 歩きながらそっとスカートのポケットを確かめる。