小さな鍵と記憶の言葉
「気付いていた? 僕と君は一度、向こうの世界で逢っていた」
フィンは時計塔の方向を見つめたまま言った。私は彼を見上げて、聞き返す代わりに首を傾げる。それが分かったのか、口元がほんの少し綻んだ。
「時の止まってしまった薄暗い部屋で、僕はずっと埃を被っていた。ただ刻々と時間だけが動いて、誰も僕の存在を思い出してはくれなかった」
それは独り言のようでもあった。私に言いながら、自分の中に確かめるように。
ごくりと息を飲む。何故だろう、この話は、心当たりがある。
「部屋の扉を開けたのは、幼い少女の小さな手。夜の帳をかいくぐって、たったひとり迷い込んだ小さな光」
カチ、コチと、聞こえないはずの振り子の音がする。ずっと心に引っかかっていたもやもやが突然晴れていく。
何度も耳にした音。そう、最初から。公園の噴水で、風だと錯覚したあの音。
お城の何処にいても私を導いてくれた音にも似ている。けれど、それより、もっと。
心細くて眠れなかった小さな私が、こっそり忍び込んだ部屋。
「――そうして僕を、みつけてくれたね」
「あなた……もしかして――」
彼の微笑みに寂しさが映った。
埃を被った文字盤、鍵の穴。規則的な時間の音。
けれど、私の口からはそれ以上の言葉が出て来なかった。
「僕達は、誰かに大切にされなければ生きていけない」
紫色の瞳が真っ直ぐに私を見る。繋いでいた掌が離れていく。少しひやりとした、夜の気配のような温もりと、瞳の色。
「存在を保つには誰かの『愛情』が必要だった。だから僕達はここに集まった。――言っただろう? ここはWander land。忘却をむかえた、彷徨えるものたちの世界だ」
ワンダーランド。彷徨いの国。ここは最初から不思議の国《Wonder land》などではなかった。だからソフィーナもセレスもケイも、あんなにアリスのことを想っていた。
愛されなくなったものたち、忘れ去られたものたちが留まる場所。たった一人、もう一度大切にしてくれる人間に寄り添うことを認められた世界。
だからアリスはいつも『外』からやってくる。城のものがアリスになることはない。愛情を注がれて初めて、この世界は存在することが出来る。
でも――でも、ちょっと待って。だったら、アリスのいなくなった世界はどうなってしまうの?
見守ってもらえなくなった彼らは、この世界は。あの、遠くにうねる大地は。太陽の隠れた空は。
私の不安は、彼の両腕によって遮られる。
「一目会えればいいなって思ったんだ」
気付いたら私は彼の腕に抱きしめられていた。こうされるのは二度目で、今二人が立つ場所も同じだけれど、別れの抱擁は前よりもずっと温かくて、そして苦しかった。
「僕にもやっと、ガーネットの気持ちが分かった気がする」
私の耳にも届かない呟きがすぐ傍で消える。鐘の音が響いている。あれは幾つ目の鐘だろう。私にはあとどれくらいの時間が残されているんだろう。
「お別れだ、アリス。いいや、莉良」
「待って、まだ話は終わってない」
彼の顔を見ようと懸命に温かさから逃れようとする。けれど、思った以上にしっかりと抱えた腕が、それを許してくれない。
「この世界のことは気にしなくていい。崩れる運命だったんだから」
風の音に似た時間の音が響く。泡沫の音。視界の端が鮮やかな蒼に滲む。
必死に掴む彼の袖。抗議を混めて引っ張って、少しだけその拘束が緩まった。
「待ってよ、フィン! 私――」
「君は」
やっとの思いでその腕から逃れる。けれどそれは私の力じゃなくて、役目を終えた彼が私を解放しただけだった。
一番初めみたいに、吸い込まれそうな紫の瞳。ひとつ、ふたつ、鐘の音が響く。
「――君は、自分の居場所を見失っては駄目だよ」
世界が蒼色に染まった。湖が波立って私を包み込む。水晶のような空気の泡の瞬き。鐘の音が余韻を残して止まる。きっとあれが十二回目の音だったのだろう。
蒼色が白い光に変わる。上も下も分からない湖の世界。パステルカラーの回遊魚。岩の間に挟まった宝石箱。足先のほうから光が呼び寄せて、身体はゆらゆらと頭の方に導かれていく。
彼の手を求めて、宙へ両手を突き出した。その指の先をシャボン玉に似た虹色の球が掠めていく。酸素を逃すまいと体を縮める。そして意識が遠のいて――私は目を開けた。
気が付いたのは噴水側のベンチ。
制服姿でカバンを抱えたままの私が、ぼんやりと座り込んでいる。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと