小さな鍵と記憶の言葉
第12章
12 アリスの想い “Alice's Endless words”
「揃った」
その声は雑音の中でとてもクリアで、吹き込む強風なんて感じないかのように彼は平然としていた。表情はいつもの穏やかな笑み、声もまた同じだった。
私の両の掌はまだ痺れていた。けれど、今はそれどころじゃなかった。彼の声以外何も聞こえなくなって、私はただただその言葉を聞いていた。いつの間にかすぐ傍にいたはずのケイとセレスの姿が消えている。気がついたら風もなくなって、なのに、何の音も戻ってこない。
「フィン?」
「来たよ。今日が期日だ」
それを理解するのには少し時間がかかった。やがて、彼が『約束』のことを言っているのだと気付いた。気付いてしまった。
「君を帰す準備は整った。君の世界へ続く扉も、もう開くことが出来る」
振り返った先の紫の輝きと目が合う。彼は私の顔を見て何を思っているのか、その意思を読み取れないままに見つめ合った。
「うん……」
白兎が私の手を取って言った。
「浮かない顔だね。少しでも、ここを離れることを淋しいと思ってくれている?」
「当たり前じゃない。随分長いこと過ごしたんだから」
私は振り返る。いつの間にか私達は、あの青色の湖の畔にいた。
二重の城壁の外、城下町よりも更に外の。広大な草原の傍。遠くに見えるはずのアリスの城は、すぐ辿り着けてしまいそうな位近く――大きく見えた。
私はあの場所に居た。ほんのついさっきまで。それが途方も無い時間なのか一瞬のことなのか、見当もつかないけれど。
「それに、たくさんの人たちとも出会った。たくさんのことを教えてもらった」
風邪の向こうに大勢の人たちを思い出す。
顔馴染みの薔薇達にカードに給仕。気さくな帽子屋と気の廻る三月兎、どこか鋭い眠り鼠。訳知り顔の芋虫、寂しそうな女王と、彼女を見守る王。一生懸命な蜥蜴、デザートが得意な海亀。愛する人を想う騎士。私を惑わす猫。彼らにお別れを言えなかったのは少し残念だ。また私は、ここに来ることは出来るだろうか。
それから、この、一番傍にいた白兎。
「そうか」
寂しいと口にすれば、彼は猶予をくれるだろうか。また来たいと願えば、この城に戻ってこれるだろうか?
一日も早く、家に帰りたいと思った。要塞のような城から外に出て、帰り道を探したいと思った日々もあったはずなのに。
私は自分の感情の変化に自分で驚きながら、楽しかったよと白兎に告げる。
「僕達は、もうそれで充分だよ」
長い耳を持たない兎が満足そうに頷いた。
時計塔の鐘が、ひとつふたつと響き出す。きっと十二時の鐘だろう。みっつ、よっつ、私達は別れの瞬間を待っていた。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと