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小さな鍵と記憶の言葉

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「ガーネット」

 彼女が泣くはずはないと知っていたけれど、今にも泣き出しそうに見えたから。私は静かに彼女の名前を呼んだ。
 階段の一番下から見上げる姿。声の届く場所のはずなのに、今はとても遠くに感じる。

「その名前を……呼ぶなと言っている」
 弱々しい声がかろうじて返ってくる。深く物思いに沈んでいたらしいその顔は、億劫そうに持ち上げられるだけで力がない。
 先刻までの怒りは既に掻き消え、その代わりその下に眠っていた感情がガーネットを支配している。
 本当の感情だ。悲しみ。孤独。寂しさ。そしてきっと、後悔。
「嫌よ」
 背を向けて立ち去りそうに見えた。だから、もう一度声を上げる。こちらを見てくれるよう。
 もう一度その名前を口にする。赤い瞳が、やっと私を捉えた。
「嫌。ちゃんと呼ぶよ。だって、貴女の大切な人がくれた名前なんでしょう?」
 彼女の表情は迷子の仔猫に似ていた。心安らぐ居場所がない、温かさをくれる母親も見つからない、途方に暮れて怯えた眼差し。
 私が手を伸べても逃げられるかもしれない。けれど、これ以外に方法はないから。

「ねぇ、聞いて、ガーネット。私はどうしたってその人の代わりにはなれないかもしれない。でも私は、貴女の名前を呼ぶことが出来る。貴女がここにいることを教えることが出来る」

 私は母親にはなれない。仔猫の傍を通りすがったただの街人なんだ。充分な食料をあげられるわけでもない、毛布を抱えていたわけでもない。
 だから、今は約束しか出来ないけれど。

「足りないことがあったら何でも言って。私、頑張るよ。貴方達が安心して自分を憶えていられるように。少しでも平穏でいられるように。だから――」

 私はこっそりと誓った。
 どれだけ短い時間だけでも、彼女の居場所を探す手伝いをしよう。この国の、この城のどこかに、眠っているはずの彼女の居場所を。
 精一杯の微笑みは、果たして毛布の代わりになるだろうか。