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小さな鍵と記憶の言葉

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 ガーネット、と白兎は彼を呼んだ。
 いや、彼と呼ぶには相応しくない。今の彼の表情は、出で立ちは、憤りを含んだ女性のそれに見えた。
 あんなにも感情を表さなかったひと。私に向けてくれた感情は精々が無関心か軽蔑。喜怒哀楽のどれも見せてくれなかった彼女が、今やっと見せてくれたのが怒りだった。

「ケイは私の指示だけでなく彼女の命令で君を見張っていた。彼はコウモリだったというわけだ。どうにかして君を追い返そうとして、ついには脅す作戦に入った。違うかな? ガーネット」
「もうその名前で呼ぶな」
 返答をする代わりに彼女は拒絶を示した。
 自我を必死に押し殺した目の色。その呼び名にぴったりの、炎にも似た鮮やかな朱色。
「それはあの人がくれた大切な名だ。あの人が帰ったとき、私も捨てたのだ」

 小さくくぐもった笑い声も。心の内を吐露にする『騎士』は、紛れもない女性の繊細さを帯びていた。まるで、夢の中で見た過去の彼女のように。
 そうか、やはり目の前の騎士と過去の騎士は同じ人物だったんだ。屈託なく笑うガーネットと、寡黙に仕事に打ち込むセレスタイン。たとえこんなにも、露にする感情が異なっても。
 変わってしまったのだ。居なくなってしまった。彼女にとってのアリスを失って。
「そうだ。アリスはいつだって私には一人しかいない。穏やかな笑みと、どこか儚げな気配をさせていた人。脆くても完璧な女性だった。――なのに」
 階段の上を白兎の声が滑り落ちていく。彼女が鋭く私を見上げる。私は変わらずに、座り込んでしまったケイのすぐ脇に膝をついていた。静かな怒気の篭った叫びが階下から帰ってくる。

「どうしてお前がアリスなんだ! どうしてあの人じゃない!! どうしてあの人は……私を置いて行ってしまったんだ……」

 ふつふつと沸き立つ紅い瞳。熱いくらいの怒り、違う、絶望だった。
 射竦められて上手い言葉が出てこない。やっとの想いで、彼女の名前を口にする。
「セレス――」
「二度と手に入らないなら、何も要らない」
 もう一度視線がぶつかる。途端に薔薇の香りのする嵐が吹いた。
 目を開けていられない。やっとこじあけた瞳に次々と映ったのは、薔薇園の景色。楽しげにお茶を飲むアリスとガーネットの姿。慌しく廊下を急ぐ騎士の姿。空っぽになったアリスの部屋。
 そして、歪み出した空と、日向を失った城。
 全てが、一瞬にして通り抜けていく。

「僕達は、誰かを必要とし、誰かに必要とされなければ存在出来ない。そのためのアリスだ。忘れたのか」
 突然フィンの声がして私は目を覚ました。いつの間にか踊り場の絨毯の上に戻っている。痛みを堪える表情のジャック。私の掌を強く握り返すトカゲ。そして肩に触れた、白兎のあたたかい指先。
「なら、お前はリラを失うことを恐れないのか」
 顔を上げた。紫色の穏やかな瞳が真っ直ぐに私を見ている。
「アリスを失い、新しくアリスを受け入れることを厭わないのか」
 問われても、白兎の顔つきは変わらない。――けれど、そうだ、彼女を哀れんでいるように見える。対するジャックはそれに気付きもしないで自嘲の微笑を続ける。
「諦めていたんだ、私は。なのに、忘れさせても貰えない。だったら、この世界が立ち行かなくなっても構わない。そうすればあの人の元へ行ける。私を大事にしてくれた、私に愛情を注いでくれた唯一の人」

 ああ、分かった。苦痛に耐える彼女の微笑。
 分かってしまった。思い出してしまったんだ。
 セレスもケイも。彼らの中に、アリスはたった一人だった。それは勿論、私じゃなくて。