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天国へのパズル - ICHICO -

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 黒髪の男が手を合わす。途端に彼らの周囲から黒い槍が先端から崩れ去る。障害の失せた場所から少女は軽やかに踏み切った。
 肉体の重さを感じない。瞬間の動きは風のように軽く、その様は苛立ちで荒れる彼の心を簡単に揺さ振った。
 彼女は迫る槍をすり抜け、ずっと微笑んでいる金髪の少女に刃を突きつけた。
 一瞬で全てのしがらみを振り切っていく。

 彼にはこれといって人目を惹き付ける力は持っていない。
 脚はもう以前の様に動かない。雨や寒さによって腹の傷痕が痛むと、何もやる気が起きなかった。
 しかし、特技と呼べる事がひとつあった。
 檻の中の生活に疲弊した彼の願望が形となったのか。はたまた主人の思いやり溢れた改造がなされていったのか。
 何度も主人が変わるうちに、彼の感覚器官は餌となるモノの情報を感じるようになり、その匂いを辿れるように変わっていた。
 それによって得る情報は感覚の再現に近い。記憶容量の多い人間等になれば、その情報量は殊更多くなってくる。
 その記憶に彼はずっと焦がれている。
 現実から解離したその情報は、覚えている限り何度も反芻できる。なのに、記憶するだけの容量を備えていない現実が彼を此処へ導いた。
 差し伸べられる無償の愛。
 その感覚を愛しいと思うだけ、己の存在する環境を不遇を痛感し、指示される記憶を辿る事は、感覚として刷り込まれた約定と、その喪失感を晴らす快楽に近い。
 しかし、導かれるまま死にゆく人間の情報を得ていた彼の脳は、今この争いを眺めている合間にも情報の再生を繰り返し続け、現実から与えられる情報を処理しきれなくなっていた。
 記憶に塗れた彼の思考は、物体として認識していたものの形をあいまいにしていく。己と世界。物と者。
 己の記憶と刷り込まれていく主人の姿は形をなしておらず、ただ自分の感情が彼の心を満たしていた。
 個を失いはじめた彼の思考はは少女の跳躍を切っ掛けに、己の情報と照準を目の前で起こる事象に合わせ始める。
 生物として正しい反応なのかもしれない。彼の目には己と刀を振り上げる少女を同一と認識していた。

 欲しかったものはたったひとつだ。
 それが今、この場所のどこにあるというのだろう。
 言うがままに動けば、全てが手に入る。
 それを教えてくれたのは誰だったか。
 素直に動いてきたというのに、それは見えやしないものなのか。
 もしもあの少女と同じ力があったなら、その全てが手に入ったのだろうか。

 羨望と嫉妬から彼の視線は向かい合う少女二人を見ていた。

「いつまで隠れるつもりだ。」

 刃を向ける少女は対象をまっすぐに睨み付ける。唖然とした顔をしていた金髪の少女は、寸止めで向けられた刃を見て笑った。
 ずっと見ている彼に人の感情は分からない。しかし、彼の目には2人とも喜んでいる様に見えた。
 快楽と愉悦。
 その様に彼は不快感を覚えた。金髪の少女の枯れた声が響く。

「その身体とそれの弟を殺してまで歯向かうとは。最後の足掻きか。」
「それはお前の決める事じゃない。」

 金髪の少女は己の傷だらけの顔を切っ先に差し出し、笑顔で刃を掴む。
 しかし、少女の手はすんでの所で止まった。いつの間にやら中年の男が駆け寄り、彼女の細い腕を掴んでいる。

「それを止めれば、これが壊れます。無理な負荷を掛けないでいただきたい。」

 男の声はずっと悠長な調子のままだった。
 しかし、落ち着きを無くした顔で金髪の少女の腕を掴み、その青白い顔を見下ろしている。
 茶髪の少女は切っ先を下ろし、正面に構えつつ男の動向を見据えた。
 金髪の少女は男の様を驚きで目を開いている。歪んだ唇から嘲ける笑い声が響いた。

「こいつは傑作だ。俺の言った出任せを信じていやがる。グレゴリー、お前が選んだ奴は本物の馬鹿だったな。」

 金髪の少女の一言に男の頬がひくりと痙攣した。
 その様を見つめ、彼女は言葉を続ける。

「今、この腕を掴んでいて気がつかないのか?そこのガキが言った通り、これは元に戻らない。俺が叩き起こした時点で、こいつの最後は決まったんだ。」

 少女は掴まれた手の甲を引っ掻く。簡単にぷつりと裂け、裂けた皮膚から色の薄れた肉が暗闇を覗く。
 男の唇がひくりと痙攣し、形を歪めた。
 それと同時に奇妙な音が響く。放電する音に似たそれは少女の持つ刀と、男の周りで白い光が弾けて、どんどん周りを照らしていく。

「これ以上腐れば使い様が無いのさ。それに俺達が欲しいのはお前達の研究成果より、イデア・プログラムの結果より、ソフィーの反逆が生み出したモノ。お前達は要らない。さっさと消えろ。」

 少女は震える男の顔に、自分の手から溢れ出たものを弾いた。
 それが男の頬に付くと、彼の顔は完全に形を変えた。目は口はただの穴になり、体の形がどんどん黒い簡素なものになっていく。だらりと垂れ下がる腕は床に伸び、一本の棒に変わって地面に落ちた。
 顔に開いた穴から人とも獣とも思えぬ声が唸りを挙げた。
 その様を真横で見つめていた茶髪の少女は、突き込んでいた刀を引きぬき、笑顔を振りまく金髪の少女を睨んで舌を打つ。

「相変わらず腐ってやがる。」
「腐ってるのは俺達じゃない。この男たちの選択が腐ってるんだ。」

 男の姿は黒い固まりになっていた。顔と思われる部分から響く音は声から振動に変わり、辺りを揺らす。先程せせり立ったコンクリートの残骸が人型の影に呑まれ、微かな光も闇に消えていく。
 影は形を変えて広がり、鼓動を打つ。暗闇の中で金髪の少女が呟く。

「お前達を愛してるよ。壊したい程に。」

 誰に呟いた言葉なのか。黒い塊から響く音がけたたましいというのに、何故がその声が彼の耳にはっきりと届いた。
 気が付けば金髪の男が自分の直ぐ傍に立っていた。男は黒い塊を眺めて溜め息を吐く。

「もう締めですか。」
「馬鹿二匹に急かされたんだ。仕方ないだろ。早いとこ出てきて。」
「早いとこって…相変わらず勝手な指示ですね。」
「ま、いいじゃん。道は繋がるんだから。記録媒体のソレを連れて帰って来たら、ご褒美くれるって。」

 金髪の男は彼を見て溜め息を吐き、少女は彼の嘆きに笑い、天井を眺めて鼻歌を口ずさむ。
「ソレ」とは自分の事であり、自分という存在は彼らにとってただの部品でしかなく、その為にこの場所に存在している。彼は今頃になってその事に気付いた。
 生物として当たり前に感じるべきものだった筈なのに。素早く立ち上がり、彼らに背を向けて一目散に走りだした。
 背後で誰かと誰かの争う音が響く。
 不意に地面が揺れ、彼は立ち止まった。目の前には金髪の男と黒髪の男、茶髪の少女の争う姿が見えた。
 彼の頭に疑問符が飛び交う。自分の背後にあったものが、自分の向かった先に現れ、出入口は目の前に存在している。
 改めて周りを見ると、己の影から伸びる暗く淀んだ霧が立ちこめている。彼の足で届かぬ場所にまで同じ霧が満ちていた。
 被食者としての恐怖が彼の意識を更に侵食し、思考を混乱させる。それによって起こる感情が彼の思いを奈落へ落としていく。
 地面が脈打ち、小さな地震に呼応して辺りに光が満ちていく。