はるかな旅の空
不満はなにもない。妻は、よく働いてくれた。隣の年寄りを、自分の両親のように世話してくれる。世話になった庄吉の両親である。粗末には出来ない。
和尚から話を聞いた時、久しぶりに、庄吉を思い出した。
今、どこにいるのか。庄吉あんちゃんの事だ。きっと東京にいるに違いない。一旗上げて、きっと帰ってくる。
”自分もあんちゃんのように、世界を知ってみたい。”
そんな気持ちがどんどん膨らみ、もう堪えきれなくなってしまった。和尚の知り合いの船主に、頼み込んだ。何故、和尚が志布志の船主と知り合いなのかは判らない。古い付き合いらしい。
「山猿がいくとこじゃなか。」
船主からは断られた。
日南や高知を経由して、薩摩の物産を大阪に運んでいたが、年に1回、江戸に荷を運んだ。和尚の頼みとはいえ、みすみす若者の人生を台無しにすることはない。
“あんな所。”と船主は思う。
貧しい。大隈の山奥はあまりにも貧しい。しかし、静けさに包まれた自然がある。山に夕日が沈む時、空が焼け、そして深い青色の空に変わっていく。誰にも邪魔されることなどない。
静けさと、ゆったりとした時間。それは、今は東京と呼ばれる所には、もうない。
が、和尚は再三、頼み込んできた。源一の何が和尚を動かしているのか。
“あの痩せこけた山猿に何が出来る。維新の世の中とはいえ、山猿は山猿。”と船主は思っていた。
しかし、結局、源一は、和尚の口添えで、船に乗せてもらう事になった。
”あん、やせごろは、見込みがあっど。連れていってくいやい。”
和尚の再三の頼みに、断りきれず、船主はしぶしぶ承知した。
その話を源一はおかつに言った。おかつは、目に涙を浮かべて、言った。
「はんが、人生じゃが、好きにしやい。子供んしは、おいが育つっで。好きにしやい。上んとうちゃんとかあちゃんは、おいが世話すっで。はんな、好きにしやい。好きにしやい。」
そういうと、台所の土間に行き、夕食の準備を始めた。竈の煙が台所に立ち込め、おかつは咳き込んで、着物の袖を目にあてた。
庄吉さんはいなくなってしまった。そして源一さんもいなくなってしまう。年寄りと、女と子供だけが残ってしまう。
しかし、子供がいる。子供が命を繋いでくれる。それでいい。女には、大きな望みなど考えも出来ない。でもそれでいい。繋げれば。
源一は、心の中で手を合わせた。
”庄吉あんちゃん、おいも行っでな。”
おかつに感謝しながら、源一が住み慣れた村を出たのは、4月の初めだった。丁度桜が満開で、山はピンク色に所々染まっていた。九十九折の山道を下り、海岸に出ると、そこからは、海岸沿いの道が志布志まで続く。広い海が静かであった。
源一は、深呼吸して胸一杯に海の空気を吸う。それは、山の空気と違い、少し生暖かい。庄吉もこの空気を吸ったはずだ。
”きっと帰ってくる。きっと迎えに来る。“
もう振り返らなかった。志布志まで、真っ直ぐに目を見据えて源一は歩いた。
船の中では、水夫の下働きをする条件であった。片道だけである。
「こんやせごろは、使いもんにならんが」
と、水夫達に笑われながらも、歯を食いしばって働いた。船酔いでふらふらであったが、東京湾に入った時、気力が戻ってきた。
和尚の話の世界が目の前にあった。新しい世界。
“自分が生きた証しを記したい。自分には出来る。やせごろでも、山猿でも、出来る”
源一は、自分に言いきかせた。
わずかなお金をもらって、港で放り出された。
庄吉はどこにいるのか。源一は、行商から始めた。東京中を歩き回った。体の大きい庄吉が働きそうな場所を、力仕事をしている所を訪ね歩き、両国の相撲部屋まで訪ね歩いた。
源一自身、行商以外にも、いろいろな仕事をした。といっても体を動かす仕事はあまり出来なかった。歩く事には少し自信があった。
彼には才覚があった。頭を使い、ほんの小さい利益から、少しずつ、大きな仕事が出来るようになった。港で荷を受け、売り歩く。人より安く、人より早く、人より喜んでもらえる物を、売り歩いた。お得意さんが少しずつ増えた。信頼される商売。
山猿は、東京の言葉も覚えた。そして、店を構えるまでになった。人も使い、売上が伸びていく。
”おかつ、待たせたな。迎えに行っでな。“
そう決心出来たのは、4年目の春だった。
若旦那の衣服を着た源一を見て、おかつは目を瞠った。戻ってくるとは思ってもみなかった。しかも丁稚を2人も連れていた。
”上んとうちゃんとかあちゃんも連れっいっでな。”
と言う。東京に行く。いやこの村を出ることすら思いもしなかった。
おかつは、すぐに、隣に走った。太市は相変わらず、廊下に座って空を見ていた。おていもすっかり年を取っていたが、まだ畑に出て働いていた。
「ほんのこんな。源一さーがな。連れっいっくいやい。庄吉に会いたか。探すっで。会うまで、け死んごたなか。連れっいっくいやい。」
おかつは、驚いた。おていが、行くと言うとは思っていなかった。大体、自分が行くとも決めてなかった。
いいのか、この家を出て、この畑を捨てて、この村を出て。隣村から嫁いで、ここから離れたことはない。いくら世の中が変わったといっても、東京。夢にも見ようがない所、東京。
最近、B棟の1―53の圧力メーターが不安定である。正常の範囲内ではあるが、針がよく振れる。上には報告済みなので、結論を持ってくるだろう。
ショウは、計器盤の下の花瓶に目を移した。花はない。白い花瓶は、それでも清楚にそこに立っている。もう三年になる。花がそこから無くなって。
「ショウ、最近どうだい。」
一週間前からここに配属になったジロームが尋ねる。
「ううーん、ちょっとね。」
「相変わらず、王様だけかい。守ってばかりじゃ、上達しないよ。」
「ああー、そうだね。」
ジロームがここに配属されて、将棋を教えてくれた。勝負事は自分には馴染めない。しかし、気分を紛らすにはいいように思える。
「嘆願書が認められたって。僕も嬉しいよ。Pテンには、思い出が一杯あるからね。しかし、委員会が認めるとは思わなかったな。」
「ああー、そうだね。」
三年前、メーサは、突然亡くなった。
「くしゅん。」
メーサは、時々、くしゃみをするようになった。少しは、ショウも心配していたが、メーサの屈託無い笑い声を聞くと、まさかと思っていた。
その日は早番で、仕事が終わり、Pテンにチップを預け、廊下に出た。
「ショウ。」
「ああー、ビージュさん、今日はもう終わりですか。」
「…ショウ、来てくれ。」
ビージュは、目を伏せながら、ショウに促した。
エレベーターで下に降りる。別のエレベーターに乗り換える。ここから下には、降りたことが無い。
何か悪い予感がして、ビージュを見た。何かうつろな表情のビージュを見て、少し身震いがした。
その部屋には番号がなかった。壁の前に立つと、静かに扉が開いた。真っ白な空間。人が数人ベッドの周りを囲んでいる。見た事がある人ばかりである。ちょっと会釈をしながら、ベッドに近づき、ショウは、目を瞠った。
「メーサ!」