はるかな旅の空
世界に訴えた。
共に生きていこう。宇宙で唯一、自然豊かな、水でおおわれた、この地球上で生きていこう。
しかし、政府は、結局、アースサーティー研究の結論に達した。内向きの結論である。しかも、わずか百名に人類の未来を託すしか、選択がなかった。理想は、挫折し、封印された。
いつの日か、きっと。
時間はない。秘密裏に、研究スタッフが選ばれた。
ビージュの父、達麻(だるま)と、母、観音(かんの)は、若き研究スタッフのリーダー的存在であったという。大学の生物電子力学専攻の二人は、ライバルとして、研究を競った。
大学院で更に研究していたある日、アースサーティーの研究スタッフとして選ばれ、秘密裏に研究施設に来た。
一時的なつもりであったが、この研究施設を出る事は許されなかった。ここから出ることが出来たものはいなかった。研究が秘密である以上、スタッフを外部に出す事が出来ない。
七年の間に、精神的に追いつめられ、命を断つスタッフが相次いだ。その穴埋めで彼らが選ばれた。
それまで研究は、なかなか進まなかったが、二人の革新的なアイデアから、一気に完成に向けて動き出した。それから更に七年、ついに完成した。
彼らには、世界の動きは、詳しくは分からなかったが、もう限界であることが彼らにも見えていた。政府は、百人をリストアップし、最終点検後、即座に実行に移す事を決めていた。
その日、47人のスタッフは、最終点検中であった。最終点検は、10日位、かかると推測された。その後は。もう開放される。皆、そう信じていた。いや信じたかったのかもしれない。
いつもと少し違う和やかな中にも、緊張した雰囲気であった。62名のスタッフ中、昨夜、夜勤の15名を除き、全員での最終点検は、朝早くから始まり、4時間が過ぎていた。
そろそろ昼食の時間。交代で昼食をとる。今日のメニューは何かな、と考えている時、それは、起きた。一瞬であった。
ビージュは、ココアを飲みながら、父母が語ってくれた、アースサーティーの歴史の始まりを思い出していた。
「ちょっと砂糖が濃いいなー」
壁に埋め込まれた“オホ”にウィンクしながら、再び、本に目を移した。
歴史は繰り返すと言うが、この歴史は繰り返しようが無い。47名の苦難の歴史が綴られたこの本は、アースサーティーでのベストセラーである。
技術的な問題はほとんどなかった。それぞれの施設区域や、機械やロボットに、名前をつける位であった。
問題は、心であった。精神面での問題は、まだ完全に研究が進んでいたわけではなく、見切り発車の形での最終点検であった。苦難の歴史は、心との葛藤であった。もちろん、精神学者も数名いたが、実際にはほとんど役に立たなかった。理論的には、克服していたが、実際には、手探りでしかなかった。
この狭い空間で、人の心は耐えられるのか。何年、耐えればいいのか。いや、ここでは、感情を出してはならないのではないか。じっと耐えるだけしかないのか。人として生きていきたい。生きている意味を知りたい。自分が存在する意味を知りたい。
達麻と観音は、研究仲間であり、ライバルであったが、恋人同士ではなかった。そのような対象としてお互いを見た事がなかったが、研究者としては、お互い認め合う間柄であった。
”歴史”が始まった時、最初に、精神学者が勧めた対策は、全てのメンバーに結婚を勧める事であった。
夫婦で研究スタッフでいた人はいなかった。というより、全員、独身であった。研究スタッフは、独身者だけで、結婚が認められていなかった。
しかし、“歴史”が始まると、結婚が奨励され、義務付けられた。若い適齢期のスタッフがほとんどであったが、結婚の相手としてお互いを感じるというより、異性に対する愛情という感情を、再び、呼び覚ますことが、困難であった。
それ程、研究に没頭した毎日であった。冷静に、懸命に、それぞれのテーマに基づき、考え、形にし、完成することしか、頭になかった。
封印された感情は、心の奥底に沈んでいた。
二人は、そんな中で、最も早く、感情を取り戻す事が出来た。
人を愛す事、人に愛される事。生きる喜びを感じる事。それを伝える事。愛する子供達に。
自然に二人は意識し合い、結婚した。
アースサーティーでの結婚第一号として、この本に書き記された。新しい歴史が始まる。新しい空間で、命を繋いでいく。地上に戻れる日まで。
“精神学的な最初の研究成果”として、ビージュが生まれたのは、翌年である。これも本に書き記された。“研究成果として。”アースサーティーで生まれた最初の子として。未来を象徴する存在として。
理想の社会を、新しい命に託していく。いつの日か地球上に戻り、青い空の下で微笑む。
新しい命。新しい宇宙の星。水青き星。
ビージュは、ココアを飲みながら、暗い海を見つめた。アースサーティーにおける象徴として、自分の存在が大きい事を自覚してはいるが、苦痛でもある。
今、このアースサーティーにいるメンバーが地上に戻れる可能性は全くない。悩み多き青春は、ぶつける対象がなく、両親を超える技術者になることにすべてを尽くした。
二十歳を過ぎると既に技術者として、リーダー的存在となり、技術部門では、若くして責任ある立場になった。
だから何が出来るというのか。この狭い空間でどう生きていくか。限界がみえても明るくふるまい、冷静でなければならない。
海を泳ぐ鮫は、自由である。深海にいさえすれば、地上の影響は受けない。どこまでも泳いでいける。あの背中に乗って、深海の探検をしてみたい。心が躍る経験をしてみたい。
おていは、太市の着物の破れを繕っていた。昼間のことを思い出して、ちょっと微笑んだ。昼間、おかつが、赤ん坊を連れて見せに来たからである。
おかつは、おていの遠縁にあたり、山を一つ越えた同じ部落の出であった。昨年、隣の一人息子、源一と結ばれた。源一は、庄吉の3つ下で、弟のように庄吉は可愛がっていた。
その源一が、おかつと結婚すると知り、おていは、喜んだ。
「うえん(上)かあちゃん、見っくいやい。もぞかどー。」
おかつがそう言いながら、おていの家に来たのが、昼過ぎであった。
「んだもしたん、もぞかなー、源一さーに似とんなー、とうちゃん、見らんや。もぞかどー。」
おていは、太市に呼びかけた。
「あー。」
返事をしたが、太市は縁側に腰掛け、空を見ているだけであった。
「じっちゃんとばっちゃんが、おっで、良かったなー。こん子は幸せもんじゃーち、源さんが言うてくれたやでー。」
おかつは、そう言いながら、乳首を赤ん坊にふくませた。まだぎこちない仕草であったが、幸せに満ちた、若い母親の乳房はぱんぱんに膨らみ、輝いて見えた。
源一の両親とは、隣同士ということで、親しく、親類同様に付き合っていたが、おかつが嫁に来ると、すぐに相次いで亡くなった。人が増えると、食い扶持が減ってしまう。しかし、幸せなはずであった。
それが、何ということか。ちょっと風邪をこじらせた二人は、若い二人に、道を譲るように、逝ってしまった。