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はるかな旅の空

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 それが、ここに来てから、毎日のようにメーサと話をする。男としての本能からか、ほのかに彼女を想う気持ちがあったが、自分が生きていることに自信が持てなくて、彼女に見つめられると、すぐに、うつむいていた。

 アースサーティー。
 海中、約二千八百メートルの空間。放射能を完全に遮断するH8で覆われた空間。気圧など生活環境は、原子力で調整され、温度は、一年を通して二十度を維持している。
 この空間の快適な環境は、とても海の中とは思えない。
 東棟G室では、あらゆる野菜の栽培をしている。レタスやキャベツなど葉物だけでなく、じゃがいもや人参など根菜類も、1年中、収穫出来た。
 温度、湿度や照明時間、そして土質など全ての環境要因は、区域毎に、自動的にコントロールされている。害虫などもちろん皆無であり、間引きすることもなく、全ての苗が育っていた。収穫も都度、自動的に行われる。
 F室には、花がいつも咲いている。生物遺伝学の応用で、地上では存在しなかった色の花も栽培されていた。以前は、蝶々も飛んでいたが、数年前から、昆虫は、全てE室に隔離された。
 ここF室から、時々、メーサは、花をつんで、ショウの見つめる計器の前の白い花瓶に飾ってくれた。どちらかというと、メーサは、赤系統の花が好きで、白い花瓶に挿すと鮮やかに見えた。
 D室は、蛋白やビタミンなどあらゆる栄養成分の合成室で、野菜と混合して、料理が作られる。特に、ミネラルや微量成分の製造の研究は進み、又、力を入れている分野であった。
 西棟A室では、排泄物の浄化処理が行われている。微生物を利用し、最終的に真水迄処理する。余分の微生物は、野菜室の土壌改善に使用される。勿論その過程で病原微生物のチェックが行われる。
 微生物のコントロールは、生死を左右する課題であり、細心の注意が払われている。単に、分子の合成ですべてが解決されるわけでなく、微生物を有効利用する技術の向上は、今後の快適な生活に資する重要な課題となっている。

アースサーティーは、三十二年前にこの海底に設置された。いや、脱出したと言ったほうがいいかもしれない。
 記録によると、三十二年前、日本の上空で水爆が落とされることを感知した防衛システムのコンピューターが、瞬時に指令を出し、アースサーティーで、たまたま勤務中の四十七名の研究員と共に、この深海に設置された。沈められた。いや脱出した。
 何の為に。何故。どうして水爆が。誰が。この空間は、一体何なのか。そして、これからどうしようとしているのか。世界は、どこに行ったのか。いや、ここが世界の全てなのか。
 
ビージュは、今、アースサーティーの最上階にある小さな図書館にいる。
 そこには、椅子が数脚と机が2つ。ソファーが一つある。右側の壁に設置された緑のボタンを押すと、メニューの一覧表とボタンが出てくる。
 ビージュは、いつものように、ココアのボタンを押して、それを受け取ると、再び、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
 目の前を深海に住む鮫が泳いでいった。厚さ三十センチの超防圧ガラスの向こうは、暗い海である。時々、深海の生き物が通り過ぎるが、真っ暗な先には何も見えない。深海だから、生きる事が出来る生物は、わずかしかいない。
 静かな深海は、気分がいいときは、気持ちが静まるが、時々、耐えられない気分の時もある。暗闇に押しつぶされそうになる。
 上部のガラス面の少し下の、小さい赤いスイッチを入れると、ガラス面は、一瞬にして、全体を覆う大きな画面に変わる。青い澄みきった空と、お花畑。遠くには、氷河を抱いた山々が見える。もちろん、画面は好みに応じていろいろと切り替える事が出来る。
 しかし、ビージュは、何も写さずに、深海を見ている事が多い。
 今日は、ここ図書館には、誰も来ていなかった。時々、非番の人が来ている事があったが、話を交わすことはあまりなかった。
 ビージュは、机の上の本を開く。本は、机の下の黄色のボタンを押すと、机の上が画面となり、本の検索が出来る。検索した本は、中央の壁にある棚に出てくる。
 あらゆる本が、あるという。小さなチップに入れられた膨大な本は、瞬時に印刷されて出てくるが、読み終えた本は、その下のダッシュに放り込むと、瞬時に消えてしまう。いや、消えるのではなく、原子に戻るというか、次の印刷を待つ。
 このアースサーティーには、廃棄されるものは、何もない。息さえも循環されて使用される。完璧に閉鎖された空間である。

 十四年の研究が実り、最後の点検中であった。
 人間が生き残る為の、わずかな空間。選ばれたわずかな人間が、脱出し、そしていつの日にか、再び地上に戻り、理想の社会を作ろう。
 あらゆる手を尽くした。外交は行き詰っていた。国連は、とうの昔に形骸化されていた。拡兵器を初めとする武器の貿易は盛んに行われ、それを使いたくてうずうずしている国が沢山あり、テロリストが暗躍していた。
 世界を、地球を想う雰囲気は、既に、全くなかった。自己を主張するだけであった。自己の正当性は主張し、他者に圧力を加えることで、意味を持つ。違いを認めるわけにはいかない。違いを認めることは、自己を失うことにつながる。
 これからは、力のあるものだけが、生きていける。この地球上で生きる価値のある者は、選ばれた人間だけである。それは、自分達だけであり、そうでなければならない。
 世界の指導者達には、理想を語る者は、誰一人としていない。地球上で共に生きていく仲間として、思いやる気持ち、違いを乗り越えて、共に助け合う気持ち。それは、昔の理想論になってしまった。世界は、緊迫していた。行きづまっていた。
 もう後戻りが出来ない。もうこの現実を変えることは出来ない。そう判断した政府は、秘密裏に研究を進めた。早くしなければ間に合わない。早くしなければ希望も夢もすべて失ってしまう。

 アースサーティー。
 未来を託す。これでしか生きて行く事は出来ない。命を繋ぐには、わずかであっても、託せる空間が必要である。
 人選は終了していた。丁度百名。それが、定員であった。命を繋ぐには、あまりにも少ない。しかし、それが限界である。
 今の科学では、これでも途方も無い研究といえた。全てを循環し、数百年は、耐えるという構造である。
 その先は、わからない。いや、それを考える必要は無いのかもしれない。神がいるとすれば、それが人間に与えた時間である。そう思うしかない。
 人種と宗教と。
 偏見に満ち、誤解から生じた社会は、追いつめられていた。国を超えて、戦いはエスカレートしていた。
 神は、何を命じたのか。暖かなぬくもりのある社会を目指していたのではなかったのか。神が作りたもうた人間は、神の声を聞いたのではなかったのか。神は、何を人間に命じたのか。啓示は、何を教えてくれたのか。
 憎悪に満ちた世界は、理想から程遠いものになってしまった。我が政府は、唯一、理想的な憲法を守り抜き、世界に働きかけた。
 あらゆる違いをありのままに受け止め、苦しみも悲しみも、そして、喜びもありのままに受け止め、それを超えて、社会を、世界を作る事をめざした。
 我々は、地球上で生きている。ここを廃墟にしてはならない。
作品名:はるかな旅の空 作家名:おさ いの