はるかな旅の空
半分位、降りた時、ふと、手元に、一輪の白い花が咲いているのが見えた。穢れのない白い花。
こんな所に、と思いながら、手を伸ばそうとした時、小さい足場が崩れた。あっと思う間もなく、庄吉の体が崖から離れた。
「あっ!白か花を、ちぎっしもた!」
ただ、そう思った。それだけだった。それからの記憶が、何か遠くに消えてしまった。
ピッピッ。ビー。
規則正しく音が鳴っていた。
ここはどこか。自分は何をしているのか。横になっているのがわかった。
あの時、確か崖から落ちたはずだ。そうだ。あの時の白い花はどうしたんだろう。
探そうとして、庄吉は、静かに目を開けた。
突然、まぶしい光で、一瞬、何も見えなかったが、そのうち、次第に目が慣れてきた。
広い部屋に、白い天井、白い壁、見た事もない機械、いや、機械などという言葉も知らない。それが、部屋に何台かあり、規則正しく音を発していた。
ピッピッ。ビー。
そして、お地蔵様のような、人間の半分位の大きさの何かが、せわしなく、機械を操作していた。庄吉が見ているのに気づき、そのお地蔵様が、すっと近づいてきた。
何か手らしきものが、庄吉の額にさわり、お地蔵様の胸にある光が点滅した。
「気がつきましたか。よく眠っていましたね。話せますか。あなたの名前を教えて下さい。」
ちょっとキンキンする声で聞いてきた。
「庄吉。」
反射的に返事をしたが、驚きで、目を見開いたままであった。
「ショウ…?むずかしいです。ショウにしましょう。ショウ。どこか痛いですか。ああー。ごめんなさい。自己紹介が遅れました。私は、あなたのお世話をします、P(ピー)テンです。痛い所がありますか。」
「うんにゃ。じゃどんから、ここはどこな?はんな、ないごて、しゃべがでくっとな。」
「むずかしいです。ことばを正しく話して下さい。」
「...」
その時、白い壁が扉のように開き、黒い服を着た若い男と女が、部屋に入ってきた。
「おおー。気がつきましたか。Pテン。健康状態は?」
「問題ありませんが、むずかしい言葉を話します。名前は、ショウというそうです。」
「ショウ。アースサーティーにようこそ」
「アースサーティー?お殿様の名前は?」
「お殿様?やっぱり。こちらのデータによると、あなたは、約三百年前から、時空を飛んできたようです。あちらに戻る事は出来ません。理論的には可能ですが、コストとエネルギーが膨大にかかるでしょう。あなたは、ここで暮らすしかありません。わかりますか。」
「...」
「彼の名前は、ビージュ。私は、メーサよ。奇跡ね。あなたは、幸運ね。あなたがここに来たのは偶然よ。判らない事は、このPテンに聞いてね。今、忙しいの。又、来るわね」
「Pテン、頼むよ。」
二人はそう言うと、部屋を出て行った。Pテンは、片目をつぶり、庄吉を起こした。
あれから4年が過ぎた。おていは、今日も、太市と二人で畑に出ていた。
その後、庄吉の消息は全くない。
庄吉失踪の噂は、すぐに広まった。里の役人も取り調べの為、何回か村に登って来た。しかし、見た者が全くいない為、うやむやにされた。形式上、谷に落ちて行方不明とされた。
本当は、役人はそれどころではなかった。
戦争になるという。しかも、エゲレスとやらの異人と戦うという。藩主久光の命で、藩全てに、臨戦態勢が敷かれた。
村人一人の失踪について、どうこうしている場合ではない。藩の存続をかけた戦争だという。太市とおていは、一応、形式的にお叱りを受けただけであった。
世の中は、村の生活に関わりなく、大きく動いていた。
大政が奉還されたという。といわれても、おていには、よく分からなかった。殿様が島津様でそれ以上は分からない。徳川将軍様から朝廷の天皇様に、政権が返上された、といわれても、この山奥では、どうでもいい事であった。
ただ、役人が右往左往しているという事で、何か世の中が大きく変化しているらしい、ということを感じることが出来た。
庄吉。息子はどこに行ったのか。あの子にかぎって、死んだなんて信じられない。あんな頑丈な子が簡単に死ぬわけが無い。
世の中が大きく変化しているなら、庄吉はどこかで生きていけるかもしれない。いや、きっと生きている。庄吉は、きっと生きている。
そう信じていた。信じようとした。そうでなければ、自分が生きていけない。生きる意味がない。
夫の太市は、あの時以来、腰がますます悪くなった。庄吉がいなくなってから、畑仕事が辛くなったという。気落ちしているのは、傍目でよく判っていた。おていは、
「庄吉は、ふとかことをしっせー、帰ってくっで。はんな、そいまで、きばらんごて。もうちっと、きばらんごて。」
と、太市を励ます毎日であった。
今日も、山に陽が落ちようとしていた。静かな山奥の暮らしは、いつもと同じ繰り返しであったが、心の寂しさは埋めようがなかった。空は、茜色に染まり、雲がゆっくりと流れていく。
そうだった。息子は、空を見るのが好きな子だった。きっとどこかで、同じこの空を見ている。空を見て、故郷を思い出しているに違いない。きっと大きな事をして、故郷に帰ってくるに違いない。
おていは、着物の袖で汗を拭いた。いや、涙を拭いていたのかもしれなかった。
“庄吉!”
分厚いガラスを通して、海の中が見える。計器を見ながらショウは、ふと母親を思い出した。そして父親を思い出した。
あれから6年。故郷を思い出す事はほとんどなかった。気持ちの余裕が全くなく、言葉を覚え、生活を覚え、機械の取り扱いを覚え、とにかく、“この世界”で生きることに精一杯であった。
「ショウ、J2の気圧は?」
メーサの声に気づき、答えた。
「1.8。ちょっと不安定だけど。」
「なにか考えていたの?」
「いや、何も。」
庄吉こと、ショウは、計器が少しぼやけて見える事に気づき、目をこすった。
なんという変化だろうか。自分が生きてきた世界が、遠い昔で、今、自分がいるこの世界が、幻想の世界で、一体、自分が生きているのか、それさえもよく判らない、そんな毎日だった。
母は、泣いただろうか。父の腰の具合はどうだろうか。今年の芋の収穫は?村に役人が来ただろうか。
いや、あの世界は、遠い昔、三百年前の世界。過去の世界で今はもうない。
何故?自分は一体誰なのか?ここで何をしているのか。あの白い花は?
「ショウ、眠くなったの。ぼんやりしているみたい。」
メーサの声で、少しはっとし、再び計器を見つめる。それから、ショウは、メーサの横顔をそっと見た。髪が少し目にかかり、頬の小さいほくろが唇の横に見えた。
ショウは、メーサと同じ施設管理部門に配属された。ショウの粘り強さと確実さが、適任とされた。並んで仕事をする事が多かった。
同い年ということもあって、メーサは、いろいろとショウに話をした。アースサーティーの話、友達の話、そして、将来の夢。
ショウは、聞き役であったが、うれしかった。若い女性など縁がなかった。土と向き合う毎日だった。