はるかな旅の空
海を見ていた。紺碧の海。
白い砂浜に老人は座っていた。足についた砂を少し払いながら、細くなった足を見た。
老人は、ここに座って、海を見るのが好きだった。
長い、長い旅だったような気がする。
旅を始めた時、老人は、筋肉で張りのある太い腿をしていた。腕を曲げるだけで、力瘤がふくれて、胸の筋肉がピリピリと震えていた。
あれから何年たったのか。
太陽が、老人の少なくなった髪を通して、頭の地肌を焼いていた。何か、ぼーっとなるような感じがしていた。
目を細めて、微笑んでいるように見えたが、流れる汗が、涙にも見えた。
庄吉は、不貞腐れていた。先程、母親のおていから怒鳴られて、渋々、父親の太市が耕す畑に出てきた。
畑仕事が嫌いなわけではない。ただ、働いても、働いても暮らしが良くなるわけでもない。ただ、黙々と土と向き合う父親を嫌いではないが、同じ人生をこれから過ごす事に、何か不満があって、今日も遅くまで布団の中で物思いにふけっていた。
小さい頃から、ぼーっと考える事が好きな少年だった。家の裏手のちょっと小高い丘というよりも瘤のような所で、草の上に寝転んで、青い空を見るのが好きだった。
色々な形をした雲が、東の方に流れていく。おにぎりや、魚や、お坊さんや、剣を持った武士や、そんな形。そして、物語を作っていた。
大きくなっても、物語は、空想の世界であった。空想の世界は、自分を変身出来た。自分は物語の主人公であり、自由で解放的で、沢山の色に囲まれ、沢山の匂いに満ちていた。そして、その物語には終わりがなかった。
黙々と土と向き合うのではなく、自分の思い描く世界に、自分を置く事が出来た。物語は、変化し、飛躍し、自由であった。
しかし、空想の世界は、捉えどころがなかった。ふわふわと、雲のように流れていった。そして、ふわふわと流れてきた。青い澄みきった空の下に。
現実の世界で、自分が今、すべき事は、何か。それは、わかっていた。
父親の太市は、最近、腰の痛みを訴えていたが、何か治療出来るわけでなし、今日も痛みをこらえて畑に出ていた。
倒れるまで働かなければならない。生きるということは、土と向き合い、土と語らい、土をねぎらい、土を次の世代に残すことである。次の世代もその次の世代に土を残していく。それぞれの人生は倒れた時に終わるが、土と共に生きることは永遠に続いていく。
そんな太市を手伝いながら、おていは、息子の庄吉に腹を立てていた。
二十年前、隣村から嫁いできて、懸命に働き、夫を支えてきた。五年前、ボケ症状のあった姑が亡くなった時、ちょっと楽になった事に、罪悪感を感じて、より一層、夜遅くまで働いてきた。仕事に限りはない。
嫁いで二年目に庄吉が生まれた時、姑が泣いて喜んだ時は、おていも嬉しくて、幸せを感じていた。
姑のボケ症状が始まったのは、そのすぐ後だった。乳飲み子の庄吉を背中に、姑の世話をし、太市の畑仕事を手伝い、懸命に生きてきた。
庄吉は、すくすくと大きく育ってくれたが、その後、子を授かる事はなかった。
余計に、おていは、一人息子である庄吉に期待していた。庄吉は、大きくなったら、父太市を手伝い、嫁をもらう。自分達は、孫に囲まれて、貧しいながらも、幸せな老後が待っている、と信じていた。それがささやかな夢であり、夢の全てであった。
それが何という事か。庄吉は、体は大きく逞しく育ったのに、何を考えているのか、ぼーっとしている子になってしまった。
怒鳴れば畑に出て、太市を手伝うが、そのうちに、畦に寝転んで、草を口にくわえ、ぼんやりと、空を見ていた。
村の人は、畦道を通りながら、首を振って、黙って通り過ぎていく。
あげんな息子に嫁は来ない、おていさんは、あんなに働き者なのに、太市どんは、ちっとは、庄吉を叱れば、いけんかならんどかいな
と、噂をしていたものだった。
今日も庄吉は起きてこない。朝の陽は、いつの間にか、高くなっていた。
おていは、突然、鍬を放り出すと、家に帰り、庄吉に怒鳴った。悲しくて、悲しくて、おていは怒った。庄吉は、のそっと起きると、おていを見ることもなく、畑に出て行った。
毎日が、この繰り返しだった。
おていは、太市が何故、息子を怒らないのかを、聞いた事があった。
「庄吉は、体がふとかだけじゃなかが。なんかどでかいことをすっかもしれんど。ほっとかんや。よか子やっで。」
そうだろうか。そう思いたくなかった。おていは、人と同じ人生で満足で、それ以上の人生はわからなかった。
生活が苦しくても、それが当たり前の事と思っていた。夫がいて、子供がいて、毎日の暮らしがある。土と向き合う暮らしがある。
今日も陽が昇り、そして又、山際に沈んでいく。静かな、心満ちた生活。自然に囲まれ、自然に生かされる。自然の中に、ささやかでも心満ち足りた人生がある。
ありがたい。この生活が続きますように。今日も、明日も、来年も、ずっとずっと、続きますように。
息子は、この村から、どこに行く事も出来ない。今の時代、村を離れる事は、ご法度だった。
自由を束縛された封建時代。それで社会の秩序が保たれていた。封建制度とは、生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度である。
村を離れるなど、そんな事は、考えても、実行して生きて行くことは出来ない。
土と暮らす農民にとって、ただ人並みの生活で、人並みに家族と暮らす。それだけがこの時代の生き方であり、望みであった。
「かあちゃん、おいは、出ていっでな。」
秋の取入れが大方終わり、冬支度を始める頃のちょっと寒さを感じる夜に、突然、庄吉が話し始めた。
「なんちな。どこせいっとか。」
「わからん。じゃどんから、出ていっでな。もう、決めたでな。明日、いっでな。」
「なんをゆうとっとや。村を出りゃー、つかまっち、どげんなっか、わかっどが。」
「そのうっ、必ず、帰ってくっで。」
庄吉は、もう聞く耳もたずで、布団に入ってしまった。
太市は、だまって、ただ、わらじを編んでいた。どうしたものか、おていはもう何も考えられず、庄吉の横になった背中を見ていた。
月はまだ高く照っていた。この峠から先は庄吉にとって始めての道であった。
両親が寝入ったのを確認して、庄吉はこっそりと家を出た。両親の悲しい顔を見ることは出来なかった。
何も持たず、ただ一目散に走った。家を振り返る事はなかった。家の裏山の細い道を駆け、峠まで一気に走ってきた。
何の為に、何をする為に、何をしようとして、家を出たのか。庄吉は、ただ、夢を追いかけていただけ。どこかにある夢を、ただ追いかけたかっただけ。
峠を下る途中で、庄吉は、獣道に入った。峠を下りた先の部落を通れば、逃亡が分かってしまう。誰にも知られず、とにかく早く遠くに行かねばならない。
獣道はそのうち判然としなくなった。笹の藪をこぎ、進んでいくと、崖下に川が流れていた。流れる水の量は、多い。
「なむさん、なむさん」
つぶやきながら、庄吉は、草をつかんで、崖を下った。百メートル位の崖は、所々に足場があり、なんとか降りることが出来そうであった。
白い砂浜に老人は座っていた。足についた砂を少し払いながら、細くなった足を見た。
老人は、ここに座って、海を見るのが好きだった。
長い、長い旅だったような気がする。
旅を始めた時、老人は、筋肉で張りのある太い腿をしていた。腕を曲げるだけで、力瘤がふくれて、胸の筋肉がピリピリと震えていた。
あれから何年たったのか。
太陽が、老人の少なくなった髪を通して、頭の地肌を焼いていた。何か、ぼーっとなるような感じがしていた。
目を細めて、微笑んでいるように見えたが、流れる汗が、涙にも見えた。
庄吉は、不貞腐れていた。先程、母親のおていから怒鳴られて、渋々、父親の太市が耕す畑に出てきた。
畑仕事が嫌いなわけではない。ただ、働いても、働いても暮らしが良くなるわけでもない。ただ、黙々と土と向き合う父親を嫌いではないが、同じ人生をこれから過ごす事に、何か不満があって、今日も遅くまで布団の中で物思いにふけっていた。
小さい頃から、ぼーっと考える事が好きな少年だった。家の裏手のちょっと小高い丘というよりも瘤のような所で、草の上に寝転んで、青い空を見るのが好きだった。
色々な形をした雲が、東の方に流れていく。おにぎりや、魚や、お坊さんや、剣を持った武士や、そんな形。そして、物語を作っていた。
大きくなっても、物語は、空想の世界であった。空想の世界は、自分を変身出来た。自分は物語の主人公であり、自由で解放的で、沢山の色に囲まれ、沢山の匂いに満ちていた。そして、その物語には終わりがなかった。
黙々と土と向き合うのではなく、自分の思い描く世界に、自分を置く事が出来た。物語は、変化し、飛躍し、自由であった。
しかし、空想の世界は、捉えどころがなかった。ふわふわと、雲のように流れていった。そして、ふわふわと流れてきた。青い澄みきった空の下に。
現実の世界で、自分が今、すべき事は、何か。それは、わかっていた。
父親の太市は、最近、腰の痛みを訴えていたが、何か治療出来るわけでなし、今日も痛みをこらえて畑に出ていた。
倒れるまで働かなければならない。生きるということは、土と向き合い、土と語らい、土をねぎらい、土を次の世代に残すことである。次の世代もその次の世代に土を残していく。それぞれの人生は倒れた時に終わるが、土と共に生きることは永遠に続いていく。
そんな太市を手伝いながら、おていは、息子の庄吉に腹を立てていた。
二十年前、隣村から嫁いできて、懸命に働き、夫を支えてきた。五年前、ボケ症状のあった姑が亡くなった時、ちょっと楽になった事に、罪悪感を感じて、より一層、夜遅くまで働いてきた。仕事に限りはない。
嫁いで二年目に庄吉が生まれた時、姑が泣いて喜んだ時は、おていも嬉しくて、幸せを感じていた。
姑のボケ症状が始まったのは、そのすぐ後だった。乳飲み子の庄吉を背中に、姑の世話をし、太市の畑仕事を手伝い、懸命に生きてきた。
庄吉は、すくすくと大きく育ってくれたが、その後、子を授かる事はなかった。
余計に、おていは、一人息子である庄吉に期待していた。庄吉は、大きくなったら、父太市を手伝い、嫁をもらう。自分達は、孫に囲まれて、貧しいながらも、幸せな老後が待っている、と信じていた。それがささやかな夢であり、夢の全てであった。
それが何という事か。庄吉は、体は大きく逞しく育ったのに、何を考えているのか、ぼーっとしている子になってしまった。
怒鳴れば畑に出て、太市を手伝うが、そのうちに、畦に寝転んで、草を口にくわえ、ぼんやりと、空を見ていた。
村の人は、畦道を通りながら、首を振って、黙って通り過ぎていく。
あげんな息子に嫁は来ない、おていさんは、あんなに働き者なのに、太市どんは、ちっとは、庄吉を叱れば、いけんかならんどかいな
と、噂をしていたものだった。
今日も庄吉は起きてこない。朝の陽は、いつの間にか、高くなっていた。
おていは、突然、鍬を放り出すと、家に帰り、庄吉に怒鳴った。悲しくて、悲しくて、おていは怒った。庄吉は、のそっと起きると、おていを見ることもなく、畑に出て行った。
毎日が、この繰り返しだった。
おていは、太市が何故、息子を怒らないのかを、聞いた事があった。
「庄吉は、体がふとかだけじゃなかが。なんかどでかいことをすっかもしれんど。ほっとかんや。よか子やっで。」
そうだろうか。そう思いたくなかった。おていは、人と同じ人生で満足で、それ以上の人生はわからなかった。
生活が苦しくても、それが当たり前の事と思っていた。夫がいて、子供がいて、毎日の暮らしがある。土と向き合う暮らしがある。
今日も陽が昇り、そして又、山際に沈んでいく。静かな、心満ちた生活。自然に囲まれ、自然に生かされる。自然の中に、ささやかでも心満ち足りた人生がある。
ありがたい。この生活が続きますように。今日も、明日も、来年も、ずっとずっと、続きますように。
息子は、この村から、どこに行く事も出来ない。今の時代、村を離れる事は、ご法度だった。
自由を束縛された封建時代。それで社会の秩序が保たれていた。封建制度とは、生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度である。
村を離れるなど、そんな事は、考えても、実行して生きて行くことは出来ない。
土と暮らす農民にとって、ただ人並みの生活で、人並みに家族と暮らす。それだけがこの時代の生き方であり、望みであった。
「かあちゃん、おいは、出ていっでな。」
秋の取入れが大方終わり、冬支度を始める頃のちょっと寒さを感じる夜に、突然、庄吉が話し始めた。
「なんちな。どこせいっとか。」
「わからん。じゃどんから、出ていっでな。もう、決めたでな。明日、いっでな。」
「なんをゆうとっとや。村を出りゃー、つかまっち、どげんなっか、わかっどが。」
「そのうっ、必ず、帰ってくっで。」
庄吉は、もう聞く耳もたずで、布団に入ってしまった。
太市は、だまって、ただ、わらじを編んでいた。どうしたものか、おていはもう何も考えられず、庄吉の横になった背中を見ていた。
月はまだ高く照っていた。この峠から先は庄吉にとって始めての道であった。
両親が寝入ったのを確認して、庄吉はこっそりと家を出た。両親の悲しい顔を見ることは出来なかった。
何も持たず、ただ一目散に走った。家を振り返る事はなかった。家の裏山の細い道を駆け、峠まで一気に走ってきた。
何の為に、何をする為に、何をしようとして、家を出たのか。庄吉は、ただ、夢を追いかけていただけ。どこかにある夢を、ただ追いかけたかっただけ。
峠を下る途中で、庄吉は、獣道に入った。峠を下りた先の部落を通れば、逃亡が分かってしまう。誰にも知られず、とにかく早く遠くに行かねばならない。
獣道はそのうち判然としなくなった。笹の藪をこぎ、進んでいくと、崖下に川が流れていた。流れる水の量は、多い。
「なむさん、なむさん」
つぶやきながら、庄吉は、草をつかんで、崖を下った。百メートル位の崖は、所々に足場があり、なんとか降りることが出来そうであった。