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はるかな旅の空

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 太市が死んで何年になるのか。
 おていは、すっかり年老いてしまった。髪は、全て白くなった。ふっくらし、日焼けしていた顔つきは、今は、皺だらけシミだらけになってしまった。鼻の下も皺が出来、歯も抜けてきた。声を出すと息が抜けるような感じがして、奥に引きこもる事が多くなった。
 源一とおかつは、実の母のように大事にしてくれる。孫達は、実の祖母のように、慕ってくれる。着る物も、食べる物も、何不自由ない生活であった。
 こんな幸せな人生があったのか。
 今日は、まだ残暑で暑かったが、久しぶりに気分が良く、廊下に出てみた。空を見上げた。雲が東に流れていく。
 庄吉。そうだった。庄吉は、よく、空を見上げ、雲を見ていた。あれから、庄吉の事を思い出さない日はない。
 突然、旅に出た。
 ”帰ってくっで。”
 と言って出ていったが、結局、帰ってこなかった。
 そして夢にも思わなかった東京まで来てしまった。庄吉に会うために。あの山奥から。
 こんな世界があったのか。こんな喧騒に満ちた世界があったのか。庄吉は、こんな世界に夢を追ったのか。しかし、庄吉に会えなかった。
 心残りがしていたが、そんな罰当たりな、こんなに大事にしてもらって、贅沢な。“息子”と“嫁”と“孫”に囲まれた毎日。
 極楽、極楽。ありがたや、ありがたや。
 おていは、外に向かって手を合わせた。命を繋ぐ事が出来た。源一にそしてその息子達に。そう思えるようになった。そう思うことで、幸せを感じるようになっていた。

 おかつは、泣いた。大声で人目もはばからず、泣いた。
 源一は、番台に座り、目もうつろに、帳面をめくる。
 ついこの間、息子達を送ったばかりである。痩せてはいたが、立派な兵士の姿である。ここまで育てた。戦争はきっと勝つ。清は、国が大きいだけで、中はズタズタになっている。負けるはずが無い。
 息子達が帰ってきたら、店を譲るつもりだった。この仕事は、才覚がものをいう。若い才覚に任せよう。自分は若隠居し、子供たちを見守る。そう思っていた。
 なのに、ついこの間、息子達を送ったばかりなのに、もう死んだという。二人共。戦争が始まったばかりなのに、なんの活躍もしないで死んだという。
 今日は、店を閉めた。とても仕事をする気にならない。
 何の為に、東京まで出てきたのか。自分の力を試したい。そう思った。畑で汗を流して、それもいい。しかし、和尚から聞いた世界は、何か、魅力に感じた。自分が生きた証しを、この世界に遺す。息子達に伝える。そして、自分は身を引こう。そう思っていたのに。
 おていは、仏壇の前に坐り、手を合わせた。
 ”なむあみだぶっ”
 泣きたかった。いや泣いていた。しかし、涙が出ない。年を取ると涙も出なくなるのか。赤ん坊の時から、彼らを見てきた。二人共、源一に似て痩せていたが、頭が良かった。
 和尚は、もう年取っていたが、源一に教えたように、色々な事を彼らに教えた。源一が迎えに来た時、和尚も喜んだ。自分がしたかった事を、源一に挑戦させた。子供達もやってくれる。和尚は、そう思い、嬉しかった。源一は、自分を繋いでくれた。生きた証しが遠い東京にある。そう思った。
 おていは、慕ってくれる“孫”達を可愛がった。源一に似て、賢い少年から青年になった。店の仕事も習い始めていた。腰を低く、信頼が一番。源一は、教えた。自分の全てを息子達に伝えた。
 しかし、戦う前に死んでしまった。戦場にすら行けなかった。船が沈んだという。別の部隊に配属されていたのに、同じ船に乗っていた。
 そんなに簡単に死ぬのか。若者が、世間様に何の奉公もせずに死んでいいのか。
 天皇様の為に戦うんだ。日本の国を守る為に戦うんだ。
 そう言って、向かったのではなかったのか。
 それが何もしないで、海の中に、沈んだというのか。暗黒の世界ではないのか。海は。いったい海に何がある。そんな所に、息子達は行ってしまったのか。
 源一は、帳簿をめくった。涙が落ちて、帳簿の字がかすんで見えた。
 おていは、廊下に出て、空を見上げた。東京の空にも雲が流れている。どこかで庄吉はこの雲を見ているだろうか。

 「チョウ、チョウ!」
 少年が呼んでいた。小船を砂浜から離そうとして押していた。今日も漁に出よう、と声をかけてくれた。チョウは、一緒に押しながら、少年を見る。
 少年の名前は、パリー。あれから、五年になる。まだ幼かった少年は、伸び盛りの少年になった。一人前に、父親の遺した船で、漁に行けるようになった。
 チョウは、言葉を覚えた。英語だという。最初は、全くわからず、パリーに笑われた。
 ここは、カリブ海にある“セントルシア”という名前の島らしい。この小さい島の一番南の町、ビューフォート。それが、ここの地名である。これだけわかるにも苦労した。
 まだ甘え盛りのパリーには、チョウはいい父親のようで、祖父のようで、そして遊び相手だったのかもしれない。
 浜の近くのバラックである。彼だけのバラックを隣に作ってくれた。木のベッド以外、椅子が一つ、年間、シャツ1枚で過ごせるが、それで少し寒い日もある。
 近くには、町があるが、ここは、貧しい。野菜を売る行商の女達が、道路端に店を並べる。わずかな小さい魚を、野菜に換えた。野菜を食べると、落ち着く気がする。
 庄吉は、ショウになり、チョウになった。
 あれから何年たつのか。旅をしてきた。はるか未来の海底で暮らした。そして今、小さいカリブの島だというセントルシア。
 畑はまだあるだろうか。もう父は畑に出るには年老いたはずだ。母は、まだ父の着物を繕っているのか。
 山に囲まれた生活は、静かな毎日だった。夕日が山際で輝く。その後は、漆黒の夜が長かった。
 チョウは、目を細めて、パリーが網を海に流すのを見ていた。パリーの父親は、チョウがここに来る直前に死んだという。船だけを残して。
 チョウは、パリーにとって、父親でもあったかもしれないが、魚の取り方も船の漕ぎ方も知らなかった。言葉は苦労したが、なんとか片言で意志の疎通は出来るようになった。
 Pテンは、パリーに替わった。あの地蔵様のロボットが、黒い肌の元気な少年になった。
 かなり沖合いにきてしまった。網を上げてみるか。チョウは立ち上がり、海の下を覗きこんだ。
 アースサーティーは、どこに沈んでいたのか。暗黒の海。しかし、ここは、紺碧の海。薄い透明の緑の温かい海。あの真っ暗な冷たい海とはまるで違う、まぶしいばかりの明るい海。
 どこに来たのか。はるか旅して、ここで何をしているのか、何のために。
 網を上げた。小さい、極彩色の魚が沢山入っている。
 「チョウ、沢山だよ。やっぱりたまには、少し沖にもこなくちゃね。」
 パリーは明るく言った。性格が明るい。ちょっと小柄ではあるが、明るい性格と要領の良さがあった。
 チョウは、網を引き揚げながら、腕を見た。随分と細くなった。細くはなったが、筋肉はまだ少し残っている。
 そうだった、村を出るとき、腕を曲げると力瘤が大きく、胸の筋肉がピリピリしていた。畑で鍛えられた体は、たくましかった。
 もう何年になるのか。又、チョウは思った。この繰り返しである。
作品名:はるかな旅の空 作家名:おさ いの