パン屋になる約束
もうじき退院? そう思い続けて一か月が過ぎたのだが、病状は芳しくない。それもそのはず、彼女はガンだった。幸いにして、まだ致命的でなかったが、早期に手術をすることを医師から進められていた。手術が恐い。このまま死ぬのが恐い。このまま死んだらどうしょう? 明にもう二度と会えなくなったら……。そう思う夜が続いていた。
暦は十二月になった。雨、そして、みぞれの日々。悪天候は、鏡子に大きな影を落とした。暗い空はまるで自分の症状が悪化していくのを映しているかのように思えて暗い気持ちになった。
「早く手術しないと手を遅れになります」と再三、医師に言われて鏡子はようやく決心した。
「お願いします」と鏡子は深々とお辞儀をした。
死ぬのが恐いと思っていなかったけれど、ただ、今すぐに死ぬわけにはいかなかった。明に会って、二人の間にある溝を越え、自分がどんな思いで育ててきたか、自分がどんなに愛してきたかを伝えたかった。
親戚の男から明に電話がいったのは、それから数日経った日のことだ。彼は誠実な男だが、ぶっきらぼうに言う。
「お母さんが入院したことを知らないのか?」
明は、「知らない」と答えた。
「やっぱり、そうか、心配させたくなかったんだ。ガンで、あまりよくないみたいだ。『手術する』と言っていた。失敗したら死ぬかもしれないぞ。早く見舞いに来い」
そう言うと、親戚の男は電話を切った。
「母親がガンの手術で失敗したら、死ぬかもしれない」と言われたとき、何が起こったのか分からなかった。ただ大変な状況であることが朧ながら分かった。次の瞬間、居ても立ってもいられず列車に飛び乗った。母親が入院しているという病院に着いたのは、手術する数時間前だった。
明はじっと母を見た。母は瘠せていた。そして白髪頭になり、そのうえ生気を搾り取られたような顔をしていた。十年、会わない間に、大きく変わったことに驚き言葉を失った。その姿に明は泣いてしまった。
「何を泣いているの?」と鏡子は言った。
「何が悲しいの?」
明は首を振った。
「いや、何でもないよ。悲しくはないよ。母さんの顔を見ていたら、何だが涙が出てきて……」
今まで、そんなせりふは一度も言ったことがなかった。一度も。けれど、その時はなぜかすらすらと言えた。
「パンはうまく作れるようになった?」
「何とか」と戸惑ったような顔をした。
「そう、今度食べさせて頂戴」
手術の時間は刻々と迫り、一時間後となったとき、明は、「母さん、母さんとの約束……僕は……」と言いかけた。
「何?」
「『もう少ししたら、パン屋を開くよ。そしたら、母さんとの約束が果せる』と言いたかっただけ」
「もう少しぐらいなら待てるわ」と鏡子はほほ笑んだ。
何とも慈しみに満ちたほほ笑みだった。そのほほ笑みが明の心の中にあったわだかまりを取り払った。
手術の間、明はずっと無事に手術が終わるように祈っていた。こんなに真剣に祈ったことはなかった。このときほど、自分にとって母がどんなに愛しい人であったか初めて知った。
手術は何とか成功した。
鏡子は少しずつ元気を取り戻した。
手術から数日経った。
朝から雪が降っていてきた。
「もうじきクリスマスだね。小さい頃、幾つの頃だっけ、もう忘れたけど、『母さんにサンタクロースはいる?』と聞いたら、『 いる』と答えてくれたことがあったね」
「覚えているわ。あなたが小学生一年のとき、小さくて、かわいい目をして聞いたもの。『何か欲しいものがあるの?』と聞いたら、『オモチャが欲しい』と言った」
「朝、起きたら、それ枕元にあった。『家にサンタクロースが来た』と言って、はしゃいだけど、あれは母さんが買ってきれくれたんだよね」
「とても喜んでくれた」
明は「ずっとそんなふうに僕を見ていてくれたんだね」と言葉を詰まらせた。
数日が経ち、明が新潟に戻るという日、朝から雪が激しく降った。
「きれいな雪。明、見てごらんよ」と言って鏡子は顔を背けた。もう少し明を見ていたなら泣いたからかもしれないからだ。泣いたら、明の旅たちの気持ちを鈍らせる。
「母さん、一つ聞いていい? 俺がパン屋になれなかったらどうしょう?」
「そんなこと、悩んでいた? パン屋になれなかったから、別の仕事につけばいいよ。大工でも、トラックの運転手でも何でもいいよ」
「でも、母さんと約束した。一人前のパン作りの職人になるって。母さんも言った。『一人前のパン屋になるまで戻ってくるな』と」
「あなたが、『パン屋になる』と言ったら、『一人前のパン屋になりなさい』と言っただけ。パン屋でも大工でも学校の先生でも何でも良かった。あなたが一人で自分の力で生きていけさえすれば…それだけのことよ。そして、あなたは十分、一人で生きているじゃないの。立派に約束を果たしているわよ。……あなたのお父さんと結婚したとき、あなたのお母さんの墓参りをしたの。そして約束したの。あなたを立派な大人に育てるって。あなたは十分、立派な大人になっているわよ」と鏡子は泣いた。涙など見せたことがないのに子供のように泣いた。
明が鏡子にガンが再発したという知らせを聞いたのは、一年後のことだった。発見されたときは既に遅かった。手の施しようがないほどガンに蝕まれていた。
明が見舞いに行ったとき、前よりもいっそう瘠せていた。死期が迫っていることは、その痩せた体が示していた。
「パン屋になるという約束をようやく果たせそうだよ」と言って自分が作ったパンを差し出した。パンを手にして、「がんばっているのね。嬉しい」と微笑んだ。それが最期の言葉だった。