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パン屋になる約束

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『パン屋になる約束』

 明(あきら)が山形から新潟に来て十年が過ぎ二十八歳になった。紅顔の美少年が、今やがっちりとした体でうっすらと伸ばしたあごひげが似合う若者となった。
この十年間、自分に言い聞かせたことが一つある。それは立派なパン屋になること。それが母親との約束であり、彼の生きる支えでもあった。

パン屋で修業をして十年が経ち、パンの作り方も店のやり方も覚えた。お金も貯まった。そろそろパン屋を開くめどがたったところまできた。その間、山形には一度も帰っていない。母親とは月に一、二回電話で会話するだけだった。だが、それは二人の愛情が乏しいことを意味しているのではなく、二人とも、自分の気持ちをうまく伝えられない不器用な人間だっただけのことである。

 明の育ての母である鏡子は小学校教師だった。長らく病気で患っていた母親を看護しているうちに結婚に行きそびれ、結婚を諦めていた三十九歳のとき、明の父である俊樹と見合い結婚した。俊樹は四十歳で子持ちだった。その子供が明で五歳になっていた。
 鏡子は、明の母親の墓前で、「明を立派に育てます」と約束した。そして実の子のようにかわいがった。甘えん坊の明は直ぐに鏡子に懐いた。しかし、鏡子は教師だったので、躾や教育には厳しかった。中学に上がっていっそう厳しくなった。あまりの厳しさに、明は泣いたことが何度もあった。そんなとき、明は、「本当の母親でないから厳しいのだ」と思ったことが何度もあった。
 中学三年のとき、父親が不慮の交通事故で亡くなると、二人の間にはどうすることもできない溝ができてしまった。それまで二人の間には父がいた。しかし、父親が亡くなってから、二人の関係を繋ぎ止めるものが無くなり、少しずつ離れていってしまったのである。
 何かうまくかみ合わないとき、「どうしたの? 何か言いたいことあるの?」と鏡子が尋ねるが、決まって明は口ごもりながら、「何でもない」と答えた。何でもないはずはなかった。言いたいことはたくさんあった。しかし、母親に理屈詰めでせめられると、明は言いたいことがうまく言葉にならなかった。しまいに、「何でもない!」と反論するのが精一杯となった。鏡子も鏡子でうまく自分の愛情を伝えられないもどかしさを感じていた。いつしか、それは血が繋がっていないせいだと諦めていた。だからといって、愛情が薄れたわけでもない。

 明は高校に進学すると、さらに二人の溝は深くなり、親子でありながら、どこかよそよそしい距離のある生活となった。
高校三年の春、その日、鏡子はぼんやりと縁側でいた。どこからもなく桜の花びらが舞ってきた。その花びらを手に掴もうとしたとき、近づく影があった。鏡子は振り向いた。明だった。ずいぶんと大きくなった。少しあごひげを生やしている。
二人は見つめた。最初に明が口火を切った。
「母さん話があります」
「何の話かしら?」
 明の顔をまじまじと眺めると、「その前に髭ぐらい剃りなさい」
 明は無視して、「僕は高校出たら就職します」と宣言した。
「大学に行かないの?」と鏡子は寂しそうな顔をした。
「行きません」
 その冷めた言い方に、鏡子は少しむっとした表情を隠さなかった。
 明は続けて、「自分の道は自分で決めます。就職したら家を出て、一人暮らしをするつもりです」
「家を出ます」と二回繰り返した。
 鏡子は何も言わなかった。鏡子が悲しそうな顔をしたなら、きっと明は考え直したかもしれない。しかし平然としていた。少なくとも、明にはそう見えた。
 「何になるの?」と問うと、
鏡子の少し怒ったような口調にも動ずることもなく、明は、「パン屋に勤めます」と答えた。
パン屋。そう……明の父親から聞いたことがある。明の実の母親がパン屋を開くことを夢みていたことを。
「確か、『あなたのお母さんはパン作りがうまかった』という話を聞いたことがあったけど」
 明は答えなかった。 
鏡子はゆっくりと立ち上がった。百五十センチもない鏡子からすると、百七十三センチの明は実に大きく見えた。
「血が繋がった息子なら、無理矢理にでも大学に行かせたかもしれない」と思ったりもしたが、血が繋がっていない。血が繋がっていないから、無理強いができない。鏡子はそんなふうに考えてしまい諦めた。実のところ泣き出したい心境だったが、取り乱すこともなく平然としていた。
「あなたは十八歳になったね。もう十分大人です。自分の道を決めるのは悪くないわ」
 その日の夜、鏡子は幼い頃の明のことを思い出して泣いた。明が五歳の時、実にかわいかった。小さな手をしていた。天使のように微笑んでくれた。あっという間に十三年の歳月が夢のように過ぎだ。夫が死んでから、二人の間に乗り越えられそうで乗り越えられない目に見えない溝が出来てしまった。その溝が解消しないばかりか、ますます深まった。そして、別れなければならない運命の日を迎える。自分がどんなに明を愛しているかうまく伝えることができずに。

 明が旅立ちの日を迎えた。家を出るとき、鏡子は静かに言った。
「明、約束してちょうだい。一人前になるまでここに来ないで」
 それは鏡子ができる精一杯の餞の言葉で叱咤激励のつもりだった。
「一人前になれなかったら、戻ってくるなということですか」と明はちょっとむっとした顔で応えた。鏡子は微かに頷いた。

 新潟に向かう列車の中で、明は、母親に対して冷たく振舞った自分に呆れた。振り返れば、母親は十分に優しかった。精一杯、愛してくれたのに、うまく応えられなかった。ほんのちょっとしたことなのに。遠い昔のことをあれこれと思い出すうちに涙がこぼれてくるのを止めることができなかった。

 明が旅経って十年が過ぎた。そして春が来て、夏が過ぎ、秋が来て、十月も終わる下旬のある日のこと。鏡子は近くの公園で散歩をしている最中、突然胸苦しさを感じて倒れた。幸い近くを通った人が救急車を呼んでくれた。
 近くの県立病院に運ばれた。
看護婦が、「家族はいませんか?」と聞くと、
「家族はいませんが、親戚はいます」と鏡子は嘘をついた。
 本当は明に伝えて欲しかったけれど、「自分の都合で呼び寄せるわけにはいけない」と思い言わなかった。また、明から、「戻りたくない」と言われるのも恐れたのである。
鏡子はベッドで横たわりながら、十年前のことを思い出した。
「一人前になれなかったら、戻ってくるなということですか?」と言った明の顔が目を閉じると浮かんだ。どうして言ってしまったのか? 自分自身でも分からなかった。立派にならなかったら、明の本当の母親に申し訳が立たないと思っただけだったのだが。

 数日後、親戚の男が見舞いに来た。
「明君は知っているのか?」と鏡子に聞いた。
「知っています」
「来ているのか」
 鏡子は首を振った。
親戚の男が、「知っていたら、なぜ見舞いに来ない?」と聞いた。
「私が、『来なくていい』と言ったんです。もうじき退院できますから」と嘘をついた。
作品名:パン屋になる約束 作家名:楡井英夫