印南寿の黒魔術
「とんでもない。おれはただ印南さんのいってることを訳してるだけですよ」
おれたちのやりとりを聞いているのかどうか、印南さんは眼球を素早く動かしながら、実況検分の詳細がまとめられたファイルを捲っている。
「正面からの事故で、ふつうに考えれば、もっとも危険なのは運転席の万代だ。宇佐美が死んで万代が生き残ったのは偶然に過ぎない。実際に彼も死にかけたわけだし、病院で事情は聞いたが、最終的に事故としておさまったはずだ」
しかし、当の万代は納得していない。運転中に突然ブレーキがきかなくなり、電柱に激突してしまったのだという主張は、しかし、話を聞きにきた交通課の警官には伝えていないのだという。事務所に口止めされたことが理由だったが、それは同時に、宇佐美ジョーにまつわる暗い噂が真実であるという可能性を高め、おれはすこし落胆した。
ともかく、万代の話では、車になんらかの細工を施した者がいるということであり、またその犯人もすでにわかっていると聞き、おれたちは手塚の手配したセダンに乗り、久し振りに遠出することになった。
ドアを開けた女の顔を見た瞬間、ここまでのドライヴで浮き立った気持ちが音を立てて沈んでいくような気がした。まだ若いはずの宇佐美章子のがりがりに痩せた体と蒼白い顔は、正視に耐えるものではなかった。
「探偵事務所のものです。先日お電話した」
「ああ」
章子は興味なさげに鷹揚に頷くと、ドアを開け放したままおれたちに背を向けて部屋のなかにもどった。
印南さんが躊躇なくそのあとにつづく。慌てて追いかけた。まだ肌寒い多摩の別荘は広く、豪奢なつくりをしていたが、暖炉に火はなく、家具や調度品も最低限のものしか置かれていなかった。絨毯も敷かれていない剥き出しのフローリングは、埃で埋め尽くされていた。
「もうすぐ売るの。どうせ、ろくにつかってなかったし」
客人に茶を出すような気はまわらないらしく、章子は綿が覗き見えるソファに深く座った。ホットパンツから突き出た長い脚は箸のように細く、色気もなにも感じなかった。それよりも、印南さんの手の動きが、おれに汗をかかせた。
「宇佐美さんの保険金が入るんじゃないかと……」
「なに?」
「いえ、そういっています」
慌てて脇にどいたが、背後にいたはずの印南さんは姿を消えていた。いつの間にか床にしゃがみこんで、割れたグラスの破片を見つめている。
章子は気にする様子でもなく、ウイスキーのボトルを引き寄せている。焦点が合わない目と乾いた半開きの唇からは、色気よりも痛々しい印象を受けた。皮下脂肪が極端に薄く、重病人のように顔色が悪かった。視線が絡み、反射的に逸らした。
諏訪からの電話はおれが受けた。宇佐美ジョーは事務所をとおして覚醒剤を手に入れていた。一見華やかな芸能界の裏の姿を見せられたようで、気分のいいものではない。顔を背けられるのには慣れているらしい章子は、鼻で笑った。
「保険金の話をしにきたの?」
予想はしていたが、それ以上に深く覚醒剤に中毒しているらしい章子は、乾涸びた唇の端を歪めた。
「だれに頼まれたのよ。会社?」
「ちがいます」
「わかった。マネージャーね。宇佐美の」
おれの答えは待たず、章子は肩を竦めた。
「あたしに金が入るのが気に食わないのかもね。宇佐美のこと、尊敬してたみたいだし」
気に食わないどころか、殺人の疑念までもたれているのだが、そこまでは考えていないらしい。章子は他人事のように首を傾けた。
「あなたはどうなんですか」
「あたしがなに」
「万代さんのこと、怨んでないんですか?」
おれの質問はしごく当然のものだと思ったが、章子はその意味をはかりかねたように眉を顰めた。
「万代さんが運転操作を誤ったせいで、ご主人は亡くなったとも考えられるじゃないですか」
「ああ、そう。そういう意味ね」
緩慢に頷きながら、章子はセーラムに火をつけた。指先は震えてもいない。視線を宙に浮かべたまま、無感動にいった。
「怨んだって、しょうがないじゃない。宇佐美とはほとんど終わってたし、かえって、よかったんじゃないかな」
「お金のことですか」
「ちがう。宇佐美にとって、よかったってこと。だらだら生きて駄作を垂れ流すより、あんなふうにぱっと散ったほうが」
おれは壁にかかったレコードのジャケットに目を向けた。室内に入ってすぐ視界に入ってきた。暖炉の上のとくべつに目につく場所に飾ってある。
「ボランみたいに?」
「ボランみたいに」
子供のように復唱して、章子は薄く笑った。共犯者めいた視線でおれを見た。
「ファンだったの」
「宇佐美さんが?」
「あたしも」
床の上に落とした吸殻をサンダルの底で踏み潰して、章子は「イージー・アクション」を歌いはじめた。煙草とアルコールのせいでひどく嗄れてはいるが、それがかえって軽快なブギーをなんともいえず哀切なものにしていた。
印南さんが顎をしゃくったのを合図に、辞去することにした。声をかけても章子は無反応で、おれたちが出て行ってもしばらく歌いつづけていた。
事故現場となった国道のガードレール下道路は、死者に手向けられた花や酒瓶、レコードといった贈りもので埋め尽くされていた。その量は、宇佐美ジョーというロック・スターの短すぎる人生をあらわしているようだった。
車から降りると、印南さんは真っ直ぐにそこへ歩いていった。ひょいと腰をかがめ、花とともに置かれていた煙草を手に取る。ヴィニールをはずし、1本つまみ出すのを見て、おれは仰天した。
「ちょっと、なにやってるんですか!」
煙草をくわえた印南さんが、大儀そうに手を動かす。
「だめです。泥棒ですよ!」
『泥棒たって、被害者がいないぞ』
「そういう問題じゃないでしょう!」
『固いことをいうな。どうせ死んだ人間はなにも思やしない。生きている人間のほうが大事だよ』
「だったら、なおさらです」
おれは容赦なく印南さんの手から煙草の箱を奪った。
「医者に止められてるでしょうが」
印南さんはふてくされた顔になったが、諦めて現場を散策しはじめた。横に並んで歩き出す。
「それにしても、あの奥さん、ずいぶん落ち着いてましたね。ヤクでラリってるせいもあるかもしれませんけど、もっとうろたえてるか、もしくは、万代のいうとおり、喜んでるかのどっちかだと思ってました」
『じゅうぶん悲しんでいたじゃないか』
「あれで?」
釈然としなかったが、印南さんは当然のように頷いた。
『いろんな悲しみかたがある。ドラマや映画みたいに真っ青になってブルブル震えださなきゃいけないということもないだろう。あの未亡人は、悲しみかたがよくわかっていないだけだよ』
「つまり、車に細工をしたりはしてないってことですか」
『あたりまえだ。あんなヤク中に機械がいじくりまわせるものか』
やさしいんだか、厳しいんだか、わからない。
『細工なんか、はじめからされてなかったんだよ。万代のでっちあげだ』
「じゃあ、やっぱり、万代が単に不注意で起こした事故だったんですかね」
『いや、事故じゃない』
「それなら、殺人事件ですか」
『ちがう』