印南寿の黒魔術
聞きようによっては腹立たしくも感じられる言葉だったが、助手に話してもしかたがないという気持ちはわかるし、そういうあからさまな態度を見せられることはなかった。
会話が途切れ、おれはまた万代の全身にさりげなく視線をめぐらせた。大きな事故だったらしい。顔面もひどく腫れていたが、もともとのつくりは端整なものだったことがわかった。
名刺に視線をもどす。音楽に関してプロというわけではなかったが、なんとなく聞いたことのある名前だった。裏返して所属タレントの欄をなにげなく目で追い、声を上げた。
「宇佐美ジョー」
「ご存知ですか」
慌てて驚愕を隠し、頷く。
「ファンでした。このたびのこと、残念に思っています」
そこまでいって、ようやく気づいた。新聞に掲載された記事には、仕事を終えて帰宅する途中の事故と記してあった。運転していたマネージャーは重傷を負ったが、命はとりとめたとのことだった。
「わたしがそのマネージャーです」
無関係であるおれに対しても申し訳なさそうな口調で、返答に困った。なんとなく重い空気になったところに、ようやく印南さんが顔を出した。眠たげな顔をしてはいるが、髭を剃り、それなりに身なりも整えている。万代から受け取った名刺に一瞬だけ目を落とし、おれの隣に座る。当然、無言である。
「実は、印南は声が……」
「承知しています」
万代は慇懃に頷いた。
「信頼できる知り合いに、ここを紹介してもらったんです。印南先生に相談に乗ってもらうのがいちばんだと」
「先生はよしてください」
印南さんが投げ遣りな手つきで空中に描く言葉を読み取って、万代に伝える。
「お話をうかがいます」
「はい。さきほどこちらの醍醐さんにもお話したのですが、わたしは宇佐美ジョーのマネージャーをしておりまして……」
あの男をどう思う。短い手の動きに、おれは肩を竦めて答えた。
「真面目そうなひとですね。きっと、宇佐美の死に責任を感じているんでしょう」
『そうじゃない』
「おれには、そう見えましたけど」
『そういう意味じゃなくて、タイプかってこと』
印南さんの声なき言葉に、おれは顔を紅潮させた。
「なにいってるんですか!」
『じっと見てただろう』
「かわいそうだと思って見てたんですよ。よほど宇佐美を尊敬していたんだろうと」
印南さんがにやにやしはじめたので、おれは不貞腐れた。
「からかうんなら、もういいです」
『悪かったよ。仕事を頼みたいんだ』
「なんですか」
『電話を1本かけてほしい』
「だれにです」
悪い予感がして、しかもそれは当たっていた。
「久し振りだな、寿」
デジャヴとかいうものではないかと思った。諏訪はおれを押し退けて印南さんの肩を握った。印南さんが指を動かすのを見て、不承不承といった様子でおれのほうを見る。
「おい」
「ひとちがいで呼んだといっています」
諏訪の表情が強張り、おれは慌てて両手を掲げた。いくらおれが恐いものしらずの若者とはいっても、やくざを敵にまわすほど浅はかではない。
「冗談ですよ。聞きたいことがあるそうです」
諏訪が舌打ちする。おれが疎ましいのはわかるが、手塚にも諏訪にも手話を学ぶほどの時間的余裕がない。そう簡単におぼえられても困ると密かに思ってはいたが、もちろん態度には出さない。
「覚醒剤のルートについてだそうです」
印南さんの言葉に、おれ自身も驚きながらも、正確につたえる。諏訪は表情を曇らせた。
「どういう仕事だ。まさか、手塚絡みじゃないだろうな」
「手塚さんは関係ありませんが、依頼人の素性は明かせません」
「生意気をいうな」
おれに迫る諏訪を抑えるように、印南さんが指を立てる。諏訪の威圧感に汗をかきながら、おれは手話を解読した。
「教えてくれなければ、自分で探すからいいとおっしゃっております」
諏訪はもう一度舌を打った。血の繋がりはないものの、印南さんとは義兄弟の間柄であり、まさしく目に入れても痛くないほど可愛がっている。印南さんの頼みを聞き入れなかったことはない。
あらためて連絡を入れるといいのこして諏訪が帰ってしまうと、おれは全身で息をした。手塚の権力はおそろしいが、諏訪の持つ強烈な圧力にもいまだに慣れなかった。
印南さんが薄笑いを浮かべているのに気づき、ことさら自然体を振舞って背すじを伸ばす。
「なんでまた覚醒剤の話になったんですか。例の宇佐美の件とはちがうんですか」
『もちろん、あの件だよ』
手招きをしておれを書斎に入れると、印南さんはパソコンを操作して、画面を示した。いかがわしい黒の画面に灰色の文字が、宇佐美ジョーの覚醒剤使用疑惑を伝えていた。
「ただの噂じゃないですか。しょっぴかれたわけじゃないんでしょ」
『しかし、調べておかなくては。知り合いの紹介だといっても、あれほどの有名人の話をこんな廃れた事務所に持ち込むのは不自然だ』
自分の会社に対して、実も蓋もないいいかたをするものだ。しかし、学生時代に宇佐美の音楽を聴いていたおれとしては、反駁せずにいられなかった。
「有名人だから、おおっぴらにはしたくなかったんじゃないですか。いろいろと、嗅ぎまわられたくないことも多いでしょうし、それがヤク関係とは限りませんよ」
印南さんはそれ以上はいわず、黙ってパソコンの画面を見つめていた。
深夜の国道で電柱に激突し、車体の半分以上が潰れた車の写真は、新聞で見た。後部座席に座っていた宇佐美は車外に投げ出され、頭部をつよく打ち、即死。運転していた万代も、事故発生から数日間、意識不明の状態だったらしい。長い眠りから目覚めた彼を待ち受けていたのは、警察とマスコミの執拗な追求だった。
「ブレーキを踏んだ形跡がなかったことが現場検証でわかり、事件性が疑われたのです」
「つまり、あなたがわざと事故を起こしたと?」
「もちろん、ありえないことです。宇佐美がいなくなれば即失職というわけではありませんが、それでもたいせつなアーティストですし、個人的な怨みもない」
「まあ、たとえなにかしらのトラブルがあって彼の殺害を企てたとしても、刺し違えてまでというのは、現実的ではありませんしね」
「警察もそう考えたようでした。マスコミにしても、一般人のわたしなんかを追いかけている暇はありませんし、宇佐美ももう落ち目でしたからね。それほどしつこくはされませんでした」
「それなら、なにも探偵を雇ってまで事故と証明することはないじゃありませんか」
「わたしは事故だと証明したいんじゃありません。その逆です」
「逆?」
無関心に膝頭を擦っている印南さんに向きなおって、万代はいった。
「なぜブレーキを踏まなかったか、疑問に思っていらっしゃるのでしょうが、わたしはブレーキを踏まなかったのではありません。踏めなかったのです」
印南さんが手を差し出すのを手塚は苦々しげに見つめたが、けっきょくは、手にしていたファイルを渡した。
「現場に残ったタイヤの跡を見ても、確かに、ブレーキを踏んだ形跡はない。ただ、車の損傷が烈しく、細工がされていたかどうかを調べるのも難しいそうだ」
「捜査課がかかわれば、それなりの再調査ができるはずだと……」
「このガキ、あんまり調子に乗るなよ」