印南寿の黒魔術
いつものようにバターロールをちぎりながら朝刊を捲っていると、見知った名前が目に飛び込んできた。思わず声を上げたおれの背後から、印南さんが首を伸ばす。
「宇佐美ジョーが死んだんですって。知ってます、宇佐美ジョー」
印南さんは首を横に振った。彼が日本の音楽に興味のないことを知っているおれは、とくに期待していたわけでもなく、宇佐美ジョー&ザ・クルーエルスというバンド名と、若くして国内ロック・シーンを牽引してきた宇佐美のこれまでの活躍を簡単に説明した。
「高校の頃、すげえ流行ってたんですよ。バンドでカヴァーしたりもしたな」
懐かしさをこめて代表曲を口ずさんだが、印南さんは紙面の小さな顔写真のほうに興味を引かれた様子で、しげしげと眺め、胸の前で手を閃かせた。
「男ですよ、もちろん。女みたいな化粧してますけど。70年代のグラム・ロックのスタイルですね」
知っている限りの英国のアーティストの名前を並べたが、印南さんにはどれもぴんとこなかったらしい。わかったようなわからないような顔で、記事に目をはしらせている。
「交通事故みたいですね。まだ30にもなってなかったのに、もったいない」
おれは新聞を印南さんに譲り、しみじみと呟いた。亡きロック・スターに捧げるにはいかにも陳腐な言葉だったが、ほとんどの人間はその陳腐な言葉さえ受けられずに死んでいく。落ち目とはいえないまでも、最近の宇佐美の新曲は全盛期のものと較べどうにも生彩を欠いていて、CDの売れ行きも伸び悩んでいるようだった。死という華々しい最期は、彼のためにはむしろよかったのかもしれないと思うのは、捩れたファン心理だろうか。
途方もない考えをめぐらせていると、インタホンが鳴った。顔を上げる印南さんを手で制して、玄関に向かった。ロビーを映し出すカメラの画面を覗き込み、ため息を飲み込む。といっても、爽やかな朝にふさわしい顔が映ることは滅多になかったが。
「よう。久し振りだな」
土産のひとつもよこさず、手塚はさっさと上がりこんできた。おれを押し退けるようにして、リビングを見渡す。
「寿はまだ寝てるのか」
「起きてますよ。そこに」
あとを追うと、印南はダイニングから姿を消していた。慌てて書斎のドアを開ける。印南はパソコンに向かってインターネットを立ち上げようとしていた。
「なにやってるんですか、印南さん」
安堵しながらも、頭を掻く。手塚もやってきて、書斎に入った。
「おはよう、寿。元気そうだな」
印南さんの肩に手を置き、手塚が相好を崩す。手塚は警察官で、印南さんの古い知り合いだ。馴れ馴れしい手つきにも、文句をいうことはできなかった。
印南さんは穏やかな微笑を返すと、パソコンに向き直った。メモ機能を開き、素早く文字を打ち込む。
『この間の事件は?』
「ああ、無事に解決したよ。おまえのおかげだ」
気にするなというように、印南さんが大きく頷く。手塚はわざとらしいしぐさで胸のポケットから手帳を引き抜いた。
「そうだ、もうひとつ、考えを聞きたいことがあってな。いいか?」
嫌だというはずがなかった。大々的に宣伝をしているわけでもない小さな事務所はつねに閑古鳥が鳴いていて、生活に困らないだけの貯えがあるから、金銭的には問題はないものの、印南さんが退屈をもてあましているのは明らかだった。手塚はそれを知ったうえであれこれと厄介ごとを持ってくるのだが、そのたびおれは微妙な反感と嫉妬をおぼえるのだった。
しかし、ここにまたひとりくわわるよりはいくぶんましだと思いなおして、おれは手塚のコーヒーを煎れるためにキッチンにもどった。
印南寿探偵事務所は、前述のとおりのひっそりとした目立たない会社であるから、助手としての仕事もごくすくない。ただし、たまに来客があるときのことを考えると、気侭に外をほっついてもいられなかった。印南さんは事故で声帯を失い、言葉を話すことができない。機械をとおすか、パソコンに文字を打ち込むことで会話はできるが、本人が面倒がるため、通訳としての役目を果たすことがもっとも大きな……というより、ほぼ唯一のおれの仕事だった。
その日もおれは欠伸を噛みころしながら、新聞を捲っていた。手塚が持ってきたリンチ殺人事件の犯人は、印南さんの助言を以ってすでに逮捕されており、新しい事件もしばらくはなさそうだった。
印南さんはまだ起きてこない。昨晩は遅くまで読書していたようだったし、緊急の要件などあるはずもなかったから、起こさずにいた。
がら空きの予定のことを考えながらぼんやりと三面記事を眺めていると、インタホンが鳴った。また手塚かと、憂鬱になりながら立ち上がった。
しかし、客は見知らぬ男だった。依頼人らしきその男が玄関に上がってくる間に、印南さんを起こしにいった。
「印南さん」
ダブルベッドの真ん中で眠りを貪る印南さんの肩を軽く揺する。
「起きてください、印南さん。お客ですよ」
声のない呻きを漏らし、印南さんは身を捩った。毛布から抜き出した手を宙で交差させる。
「だめです。久し振りの依頼人なんですよ」
おもしろい仕事かもしれないと耳元で囁いたが、印南さんは起きようとしなかった。玄関のブザー音に聞こえるはずもない返事を返し、強引に腕を引く。
「起きないと、ちゅーしちゃいますよ」
無意識にか唇を引き締める印南さんを見下ろし、やれやれとため息を吐く。有限実行がおれのモットーである。身を屈め、まどろんでいる印南さんの唇に唇を圧しつけた。ブザーがもう一度けたたましく鳴り、我に返る。おれのほうこそ、こんなことをしている場合ではない。しかたなく、印南さんを残して寝室を出た。
ドアを開け、おれは思わず言葉を失った。画面ごしに見たときには気づかなかったが、目の前に立っていた男のワイシャツの襟の下は包帯に覆われ、肩に引っ掛かった紐に左腕を吊られていた。
「どうかなさったんですか」
とりあえず客間に上げ、コーヒーを出すと、いの一番に尋ねる。興味の有無以前に、聞かないほうが不自然だろう。男は気恥ずかしそうな苦笑いを浮かべた。
「実は、事故に遭いまして」
「それはたいへんでしたね」
社交辞令としての悲痛な表情をつくる。おれの以前の職業はヒモである。もちろん、客人の腕を吊っているものではなく、他人の財布をあてにする人種のことだ。印南さんが起き出してくるまでの間を保つことぐらいは、お手のものだった。
「万代と申します」
「助手の醍醐です」
交換した名刺には、音楽事務所のロゴマークと、万代幸彦という名前が刷られていた。
「すみませんが、印南は今取り込んでおりまして、数分で参りますから」
「そうですか」
「申し訳ありませんが、すこしお待ちいただけますか」
「いえ、アポイントもなしに押しかけたわたしが悪かったのですから」
申し訳なさそうに頭を下げる依頼人を素早く観察する。年齢はかなり若い。疲労困憊といった様子ではあるが、それを差し引いても、20代半ばぐらいだろう。ただし、憔悴してはいても、受け答えはしっかりとしていて、いかにも仕事ができそうな印象を受けた。
「よろしければ、先にお話を伺いますが」
「いえ、わたしのほうはいくらでも待てますから」