とある夜と、兄と妹
「あれ、さおりちゃんは?」
コーラとミルクティーとオレンジジュースのペットボトルを持った日渡は、さみーさみーと連呼しながら炬燵に足を突っ込んだ。なんだかんだ言いながら僕の分まで買ってくるとか、なんだろうなんでこいつこんなに男前なんだろう。ちょい悪でかっこいいのっておやじだけじゃないんだな。
「眠そうだったから寝かせた。悪い、布団借りてる」
「いいって。これ持って帰れよ」
「すいませんねえ何から何まで」
「親、仲悪いん?」
「あー。どうなんだろうなあ」
「再婚、一年前なんだろ?」
「んー、まあねえ」
「なに、それはさ、義理の母親がお前のことを蔑ろにするとか、そんな感じ?」
「いや、それは違う」
義母はいい人だと、客観的に見て思う。僕のことを蔑ろにするどころか、僕をまっとうな人間に育てようとさえしてくれている。妹だけ可愛がることだってしない。料理はうまいし、洗濯や掃除だって毎日欠かすことはない。塾に持っていく弁当は栄養バランスがきちんと考えられているし、ボリュームも満点。コンビニ弁当やパンで夕飯を済ませるやつらがいる中で、あれだけの弁当を持ってくるのはあんまりいない。さおりなんて、毎日義母お手製のおやつを食べているんだ。
いい人だが、教育に熱心すぎるのだろう。父親が体育会系で勉強なんて二の次って考え方をする人だからたびたび衝突しているだけであって。
「妹と、分け隔たりなく育ててくれてるよ」
「じゃあなんで家出したんだよ」
「……さっきのはさ、おためごかしだと思うんだけど」
日渡は一瞬なにを言われたんだかわからない顔をして、「ああ」と頷いた。
「じゃあなにか、お前は、四歳児に向かって、喧嘩かーそりゃもうだめだな離婚も時間の問題だな、っていえば良かったって言うのかよ」
「そうじゃないけど……」
「焼き餅焼くなよオニイチャン。ありゃあ、他人だから言ってくれただけであって、オレが本当の兄貴だったら言わなかったって」
「日渡さ、なんでそんな子供の扱い上手いわけ」
「そりゃ、オレ妹いるもん」
「えっ」
そうだっただろうか……。
「四歳年下で、オレが小4なるかならないかの頃に親が離婚したから、お前会ったことねーんだろ。今は親父と暮らしてる」
「そうだったんだ……。それ、逆のパターンが多くない? 女親が女の子引き取るってのがさ……」
「最初は、オレも妹も親父に引き取られることになってたんだけど、なーんか母親がかわいそうでさあ。オレが一緒にいたいって言ったわけ。それに妹が母親に引き取られるのもなーんか怖かったし」
「怖いって、なんで?」
「母親、再婚するとするじゃん」
「うん」
「再婚相手が真面なヤツとも限らないじゃん。ロリコンだったら大変じゃん。ま、再婚相手に息子がいたら同じことだけどさ」
「日渡、小4の頃からそんなこと考えてたの!?」
「親がだらしねーと子供は早熟すんだよ」
僕が小4の頃って……なにしてたっけ……少なくともそんなことは考えもしなかった……。
なんだか急に怖くなった。もし、親が離婚したらどうしよう。当然、妹は義母がつれていくだろう。実の子供なんだから、当たり前だ。もし義母が再婚して、また今みたいなことになったら、妹のことは誰が守ってやるんだろう。妹は一人で、玄関マットの上でじっとしているんだろうか。お絵かき帳を黒く塗りつぶすんだろうか。なんだか急に、悲しくなった。
なったら、やたら泣けてきた。
「うおっ! お前なに泣いてんの!?」
「り、離婚したらどうしよう……。親、二人とも気ぃ強いし、なんかこのまま行ったら離婚しそうなんだけど……。い、いもうと……妹が……」
「気持ちわりぃな、泣くなよ」
「僕のことはもういいよ、歪みなく育つ自信あるよ。でもさ、さおり、まだ四歳なんだぜ? 親、喧嘩するとさ、さおり玄関マットの上でちんまくなってんの。僕が塾から帰ってくるの待ってんの。帰るの、遅いのに、九時とか過ぎるのに、待ってんの、寒い玄関で。誰か助けてくれるの待ってんだよ。いい子だからさ、わがまま言わないし、泣かないんだよ。喧嘩が終わるのじっと待ってんだよ……」
可哀そうな妹。不憫で健気な妹。まだ四歳なのに。いらない大人の事情ばかり知らされて、中途半端に行動できる僕と違って、妹はじっと家の中にいるしかないのだ。
「でも、お前が助けてやるんだろ」
「離婚したら助けてやれないじゃないか……!」
「なに言ってんだよ。ちょー簡単じゃねえか。助けりゃいいんだよ。それだけだよ」
「……かっこいい男は言うことが違いますなあ……」
「かっこよくねーわ。馬鹿じゃね」
「僕、困ってる友人に逃げ場を作れるような人間になるわ。あと飲んでるものさりげなくチェックしてスマートに奢れるような人間になるわ」
「あっそ。お前んちがホームレスの溜まり場にならねーことを祈るわ」
柄にもなく、日渡は照れているようだ。これか、これに女子はキュンとするのか。要チェックだな。
「ま、また家出したくなったらオレんちこいよ。さおりちゃん同伴限定な。お前だけだったら居留守使うから」
「友達甲斐のないやつ……」
「男同士なんてこんなもんだろ」
「そうかなぁ……」
「おっと……」
日渡が、ブルブル震える携帯を手に取った。
「オレ、ちょっと出てくるから。すぐ戻るわ」
日渡は上着も着ないで外に飛び出した。電話が終わったら戻るつもりなのだろうか。それにしたって、この寒いのに上着ぐらい着たっていいものだけど。
奢ってもらったミルクティーのキャップを外していると、日渡は本当にすぐに戻ってきた。
「向井、ちょっと」
「え、なに?」
呼ばれるままに炬燵から足を出す。玄関から、冷気が忍び寄って肌がじんとした。
日渡が玄関を大きく開ける。
両親が立っていた。
頭が真っ白になった。
家出を決めた時、いろいろと考えることがあった。心配させてやろうとか、困らせてやろうとか、後悔させてやろうとか、考えていたはずだった。なのに、実際親の前に立つともう何も考えられない。
「なんで……」
「仲直りは早めがいいと思ってさ」
「日渡……うちの電話番号知ってたっけ……」
「オレの情報網甘くみんなよ」
ふふん、と日渡が笑う。
父が、ずいと玄関に入ってきた。
「修也、」
「僕、部活頑張るよ!」
叱られる! そう思った瞬間、そんな言葉が飛び出た。父親に二の句を続けさせないよう、べらべら舌を回す。
「塾も行くし、部活もやる! それでいいよね、円満解決だよね! ふたりともそれで満足だよね!? ほらもう喧嘩する理由ないじゃん。だよね。塾行く回数減らさなくちゃいけないけど、その分、自習頑張るし! 週七で塾行ってるやつに負けないようにするし、がっちがちの運動部は無理かもだけど、ゆるい部活だったらちゃんと参加できるよ。だから、僕頑張るから、だから離婚しないで! 母さん、父さんと別れないで! さおり連れてかないで! お願い!」
走ったわけでもないのに、息が切れた。心臓がドッキドキしている。どっどっどっ、なんてレベルじゃない。ドドドドド、だ。もう脈打ってないように感じるぐらい、半端なく動いている。