とある夜と、兄と妹
父が、僕の名前を呼んだままの口の形で固まっている。なんだ、まだなんか足りないか。あと僕にできるのは……家事手伝いか!?
「あと――、」
家の手伝いもします! と宣言する前に、義母がわあわあ泣き始めた。え、泣かすこと言ってないのに! すごい良い提案したのに! ていうか母さんちょっと近所迷惑! 義母はもう言葉にもならないようで、子供みたいに泣いていた。
「ご、ごめんなさい……」
わけはわからないが、とりあえず謝る。女子が泣いたら何も言わず謝る。それが利口だ。
「なにが、ごめんなさいだ。なにが円満解決だ」
父が低い声で言った。いつもより数段低い声だ。喧嘩している時だって、こんなに低くはない。
「修也、お前は、何がしたい。父さんや母さんのことは考えなくていい、お前は、何がしたい?」
何がしたい……と言われても。
そんなの考えたことがない。僕は、家族が仲良く過ごせたらそれでいいんだ。そのためなら塾も部活も頑張るし、足りないっていうなら家の手伝いもするし、妹の面倒もみる。それだけだ。
「……僕は、家族が仲良くいられるなら、それで、いいよ。したいことは、ないんだ。父さんと母さんが喧嘩しないなら、僕、なんだってできるんだよ」
父が、ぐぅ、と喉の奥を詰まらせたように唸った。そしてボタボタ泣き始めた。
え、なんだ、なんなんだこの展開は。なんでこうなった?
「おい」
呆然と両親が泣いているのを見ていた僕の肩を、日渡が小突いた。なんだよ僕はいまそれどころじゃないんだよ大混乱の真っただ中なんだよ、日渡がぐいと顎を突き出す方を見ると、妹がきょとんとした顔で立っていた。
ガシャン、と頭の中で音がした。
もうだめだ。家庭崩壊だ。積み木崩しだ。離婚だ。
「行けよお兄ちゃん。ちゃんと妹助けろよ」
頭が真っ白なまま、日渡に言われるままにさおりの元に行き、ちっさい体を抱き上げる。
「さおり、大丈夫だからな。喧嘩してるんじゃないんだからな。大丈夫だからな」
大丈夫だと言ったのに、妹は、ひっ、と息をのんで、泣き始めた。
「え、なんで? なんで泣いてんの? 何がダメだったの?」
日渡と同じことを言ったはずなのに、どうして妹は泣くのか。困り果てて両親を振り返る。
「僕、何がダメだったの? なんで? ねえ、どうしたらいい?」
さっきまで泣いていたこともあって、涙腺の緩んでいる僕もとうとう涙が落っこちた。
「だめじゃないっ!」
母親が泣きながら叫んで、ばたばたと家の中に駆け込んだ。だから母さん、ここ人んちだし夜中だし近所迷惑なんだって。
「もういいから! 塾なんて行かなくていいし、部活なんてしなくていいから! 離婚もしないから! もう帰ろう、みんなで帰ろう!」
わあわあ泣きながら、義母は妹ごと僕を抱きしめた。そういえば、義母に抱きしめられたのは初めてのことだ。
なにこれ、どういう状況。
日渡と父が何か話している。世間話している場合じゃないだろう。どうにかしてくれ父。
「帰ろう、修也」
「……そりゃいいけど……」
義母も、帰ろう、ね、もう帰ろう、と子供のようなことを言っていることだし。さすがにこれは日渡に迷惑すぎるし。
わあわあ泣く義母を引っ張りながら玄関にたどり着くと、父が妹と僕と義母ごと、がっしりと抱きしめた。
「……これ、なんなの?」
「一件落着ってことじゃね?」
日渡がにやっと笑う。
「なんか……ごめん日渡、騒がしくして……」
「構わねーよ。どうせここの住人、こんな時間に寝てねーし」
「そうなんだ、あ、今度お礼するから」
「ダチが困ってたら、普通助けるだろ」
「だからお前は、なんだってそう男前なんだよ。……まあ、いいや、とにかくもう帰るわ。ほんとにありがとう日渡」
「はよ帰れ」
「うん」
「日渡君、本当にありがとうな」
うっうっと泣きながら義母がこくこく頷いた。同意しているのだろう。
「友達として当然のことしただけっす。さおりちゃん、さっきまで寝てたんで、早く帰って寝かせてあげてください。たまにお絵かき帳もチェックしてやってくださいね。黒いクレヨンの減りが早かったら要注意っす」
父は大きく頷いた。もう一度礼を言って、日渡の家を出る。
なんだかよくわからないんだけど、日渡の言葉を信用するならこれで一件落着らしい。
***
吐く息が、白い。
父と僕、僕と妹、妹と義母が手を繋いで、家に帰る道すがら、いろいろな話をした。
「勉強は好きだけど、塾はあんまり好きじゃない」
「うん」
「母さんのお弁当はめちゃくちゃうまいけど、みんなで晩御飯食べたい」
「うん」
「父さんが高校球児好きなのは知ってるけど、僕はあんまり運動得意じゃないし、球児にはなれそうもない」
「そうか」
「でもキャッチボールくらいならたまには父さんとしてもいい」
「そうか」
「二人が喧嘩してる時、玄関でちっちゃくなってるさおり見ると泣きそうになる」
「うん」
「僕の部屋にも、二人が喧嘩してる声、聞こえてくるから、ちょっと嫌」
「喧嘩しないように気を付ける」
「おにいちゃんが、けんかするのはなかよしだからっていってたよ?」
「そうね。パパとママは仲良しなのよ、さおり」
「しってる」
えへへ、という感じで妹が笑った。
言うなら今しかない。
「僕は、父さんと母さんとさおりが大好きです」
「母も、パパと修也とさおりが大好きです」
「父も、ママと修也とさおりが大好きです」
えへへ、と妹が笑って、わたしもだいすき! と言った。
たぶん、父と義母はこれからも喧嘩をするのだろうと思う。でも、妹が今日のことを覚えていたら、きっと玄関マットの上で小さくなっていることはないはずだ。僕もきっと、部屋まで届く喧嘩の声を、今日のような気分できくことはないだろう。
日渡に感謝だ。
途中で父が妹を抱っこして、照れ臭かったが、僕と母が手を繋いだ。
今の僕たちは、妹の描く絵のようだ。
それはなんだかとても幸せそうな光景で、僕はこっそりと笑った。