時間の止まった町
ここからは死角になっているが、あのクスノキの裏手には直径四十センチほどの洞穴がある。根幹の周辺には何百年もの歳月を経て形成された窪みのようなものが幾つか存在するが、その洞穴は地中深くまで侵食していた。陽の強い白昼ですら底部までは視認できず、黒々と口を開けたその様は異形としか言いようがなかった。
しかしそんな洞穴も、十年前に起こった幼女の転落事故を機に、現在は茨により封印されていた。
3
遠慮気味にドアが開き、郵便配達員の顔が覗いた。
「いらっしゃったのですか。ノックをしたのですが、お出にならないものでお留守かと……」
郵便配達員はいつものようにくたびれた紺色の制服をなおざりに着込み、獲物を呑み込み膨張した蛇の腹のような鞄を肩から斜めにかけていた。この男のノックの音は、息絶える直前の鈴虫の音のように遠慮気味であり、いつも聞き逃してしまう。
「今日も郵便物はありませんよ」
彼はそう言うと鞄を入口付近におろし、いつものように部屋の中へ入ってきた。
「すいません、あいにくゴルトベルクを切らしてまして……」
彼を向かいの席へ招き僕は言った。
「いえ、構いませんよ。今日は直ぐに失礼しなければならないので……」
「それはまたどうして? いつもならゆっくりしていって下さるではありませんか」
何となく予測はついたが、僕は敢えて問いかけてみた。すると、彼の表情が微妙に変化した。
「そろそろ忌日が近づいていますからね。今年は私が責任者なので、色々と準備があり奔走させられているのです」
彼は重い口調で言い終えると、窓の外へと視線を移した。つまり、あの丘の上のクスノキを見ているのだ。
忌日というのは、十年前の転落事故が勃発した日付である。その年から毎年洞穴の前に薔薇の木を一本ずつ植えるのがこの町の習慣になっているのだが、今年は彼がその追善の責任者なのだ。
「もうそんな時期ですか……。早いものですね」
僕は正直な心境を漏らし、冷めつつあるゴルトベルクを一口飲んだ。喉が乾いていたので続けざまに口にしたかったのだが、目の前の郵便配達員に気兼ねをし自制することにした。
「私に言わせてもらえば、あの日から時間が止まってしまったように思えてなりません。あの丘も、あのクスノキも、町の風景も何一つ変わりませんし、私たちはただひたすら薔薇を植え続けているような……そんな気がしてなりません……」
郵便配達員はそう言うとゆっくりとした動作で席を立ち、入口に置いてあった鞄を肩にかけた。
3
頬に当たる霧雨が心地良かった。その細く小さな雨粒はユラユラと空中を漂い、僕が息を吹きかけると簡単に空へ舞い戻って行った。その雨粒の行く末を最後まで見届けようとしたが、辺りは水中のように霞んでいるため途中で見失ってしまった。
そんな風も音もない世界に僕と彼女は佇んでいた。二人とも髪や服が体に張り付くほど雨に濡れ、彼女の両結びの髪先からはポタポタと雫が垂れていた。
突然彼女が身を翻して駆け出した。屈託のない笑顔の上を、次々と雫が遠心力により流れ落ちた。
僕は慌てて彼女を追った。彼女が遠ざかると、今まで心地良く感じていたこの場所が、急に物寂しさで一杯になったからだ。
しかし彼女は鈴の音のように笑いながら器用に僕の手を逃れた。時折僕を振り返る彼女の大きな瞳の中には、きっと情けない顔をした僕が映し出されていたに違いない。
丘の頂上付近でようやく彼女を捕まえた頃には、僕たちはゼンマイが切れかかったオモチャのように疲れ果てていた。二人とも喉がカラカラになり、空を仰ぎより多くの雨粒を口の中に取り込もうとした。
乗り捨てられた自転車を発見したのは僕だった。車体の大部分を野草に取られ無様な格好で横たわるそれは、まるでリリパット人にがんじがらめにされたガリバーのようだった。
僕は彼女を荷台に乗せ、覚え立ての運転を得意げに披露した。走り疲れていた彼女は僕の背後で大人しくしていたが、僕は彼女が怖がっているものと勘違いをし、悪戯にスピードを上げた。
しかしぎこちない運転に天候状態も相まって、僕たちを乗せた自転車は意図せぬ方向へ走り出した。車輪は、ブレーキによる摩擦を物ともせず急激に加速を始めた。彼女のしがみつく両手が僕の貧弱な腹部に食い込んだが、痛みを感じている余裕はなかった。制御の効かなくなったハンドルを渾身の力で握り、目まぐるしく通り過ぎて行く風景に焦点を合わせることだけが僕の精一杯だった。
すると突然前輪が何か硬い物に弾かれ、僕たちは宙に投げ出された。一瞬、視界の片隅に彼女の華奢な脚が見えたが、その直後新緑の地面を自転車と共に転がり落ちていった。
どのくらいの時間が経過したのだろうか? 気を失っていた僕たちは、ほぼ同時に意識を取り戻した。恐る恐る体を起こし怪我をしていないか調べたが、どうやら野草がクッションとなり二人ともかすり傷程度で済んだようだ。自転車は数メートル先に横転しており、タイヤの空回りする音だけが辺りに響いていた。
ふと彼女と視線が合った。草や泥まみれになったお互いの有様が滑稽で、それまで深刻な表情をしていた僕たちは同時に笑い出した。
雨粒が心地良かった。
4
町へ買い出しに行こうと外へ出たが、自転車の前輪がパンクしていた。この時間から徒歩で出かけるとすると、帰宅は夕暮れになってしまう。しかも結構な荷物を抱えての帰路になるので、面倒だが修理しないわけにはいかない。出鼻を挫かれた思いを押し殺し、泥のこびり付いたバケツに水を張った。
町へ出るのは一ヶ月振りである。それは随分昔のようでもあり、昨日のことのようにも思えた。どちらが自分にとって望ましいのかはわからないが、いずれにせよ町へ出る時の僕の心境は決して嬉々としたものではなく、むしろある種の自己暗示的な覚悟が必要だった。そしてその覚悟には大抵一月程の時間を要した。つまり逆算的所見から、僕の日常はゴルトベルクの有無に比例するものの、常に覚悟を強いられているということになる。
バケツを抱えた僕は、子供に接するようにタイヤの前にしゃがみ込んだ。そして指を挟まないように注意深くチューブを抜き出し、狭いバケツの中で根気よく破損部分を探した。
「お出かけですか?」
ふと背後で誰かが話しかけて来た。しかし僕には、それが誰であるのかわかっていた。郵便配達員だ。
「ちょっと町まで買い出しに……」
僕は手元から目を離さずに答えた。チューブを部分的に水に浸し、破損箇所が見つからずまた別の部分を浸す。僕は単調な繰り返しに溜息をついた。
しかし溜息をついたのは僕だけではなかった。郵便配達員も同時に溜息をついたのだ。ふと僕の中で極微量の気怠い好奇心が湧き、屈んだ姿勢のまま彼を見た。
彼はボンヤリと立ちつくし、丘の上のクスノキを見ていた。
5
市場は活気に満ち溢れていた。色とりどりの野菜、毒々しいまでに鮮烈な肉塊、子供達を吸い寄せる嗜好本位の食物、山積みにされた日用雑貨、使途不明の骨董品。商品なのか装飾品なのかわからない花々が、それらを鮮やかに演出していた。