時間の止まった町
人々の喧噪の中に売り声が挟まれ、人いきれも相まって祭りのような光景が、僕が一歩市場に足を踏み入れた途端に一変した。不穏な空気とざわめき、嘲笑と哀れみ、好奇の目と侮蔑の目。
僕が一歩足を進める度に人垣は引いたが、それらの雰囲気は増していくばかりだった。僕の体は、外圧に耐えられないトマトのように潰れてしまいそうだった。しかし僕は、いつものように平静を装いながら路地裏へ入り、突き当たりの小さなドアを潜った。
「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思っていたよ。ゴルトベルクだね?」
顔馴染みの初老の店員は、振り返りもせずに言った。
「君の場合は足音でわかる。自覚はないと思うが、どこか逃げるような歩き方だからね」
僕は西日が差し込む窓から外を眺めた。市場と反対側の通りは別世界のように閑散としていたが、ここからでもあのクスノキを観望することができる。
「ゴルトベルクという紅茶はだね……」
店員は、僕を見るとはなしに話し出した。
「本来君のように常飲するものではなく、特別な日に煎れるものなのだよ。そう、厳かに慈しみながら喫するものなのだよ」
僕はふと先日の郵便配達員の言葉を思い出した。
『私に言わせてもらえば、あの日から時間が止まってしまったように思えてなりません。あの丘も、あのクスノキも、町の風景も何一つ変わりませんし、私たちはただひたすら薔薇を植え続けているような……そんな気がしてなりません……』
もしも本当にあの日から時が止まってしまったとすると、僕の日常というのは店員の諭すところの『特別な日』であり、よって僕の常飲は至極正当な行為である。僕がこの閃きを店員にぶつけてみようとすると、タイプライターのようなレジを打ちながら彼が呟いた。
「私は君に強く進めるよ、この町から出ていくことをね」
6
花のアーチを潜った。
水底から引き上げられた丸太の様な蔓草が幾重にも絡み合い、迷路のようなトンネルを構築していた。時折、アクセントのように色とりどりの花々がアーチを形成していたが、この薄暗い世界には眩し過ぎる存在に思えた。
歩を進めると次々と分岐点が訪れたが、僕はその都度適当な判断を下した。左、そして次は右、そしてまた左、僕は立ち止まることに何故か躊躇いを感じ闇雲に歩き続けた。ふと同じ場所を堂々巡りしている錯覚を覚えたが、それはあながち気のせいではなかったのかもしれない。
花のアーチを潜った。
突起した蔓に何度も足を取られそうになった。歩き慣れないこのような悪路に余程注意を注がねばならないと言うのに、僕は何を急いでいるのだろうか? 誰かに追われでもしているのだろうか? それとも誰かを捜しているのだろうか?
花のアーチを潜った。
遠くで微かにあの少女の声を聞いた。耳の奥で鳴り響く幻聴のようにも思えたが、僕は確かに少女の声を聞いた。それは飼い主に捨てられた子犬のように悲しげな声だった。
気が付くとそれまでの闇雲な歩調が、その声の方向へと向かっていた。
花のアーチを潜った。
これで何本のアーチを潜っただろうか? どうやら僕は、あの悲しげな声には遠く及ばない存在のようだ。僕の足は疲労で、招かれざる訪問者を遮断する支え棒のようになってしまった。いや、僕の存在そのものが『招かれざる訪問者』なのかもしれない。僕は歩くことをやめ、特別大きく突起した蔓に腰をかけた。
7
郵便配達員が再び訪れたのは、追善の儀の前日だった。彼は相変わらず、モンゴルフィエ兄弟の気球のように膨張した鞄を肩から斜めに掛けていた。彼の表情からは、儀の責任者としての充実感も疲労感も感じられず、いつものように無表情だった。
彼が僕の向かいの席に座ったのを見届け、僕は彼の分のゴルトベルクを煎れる為に席をたった。
「あなたは、これからどうするつもりですか?」
そう問われ、僕はてっきり明日の儀のことかと思い「明日はもちろん僕も出席します」と答えた。
「いえ、明日のことではなく明日以降……つまり今後のことですよ」
時間が止まっていると錯覚している人間が、妙な事を言うものだと思いつつ僕はしばし考えた。しかし答えは出るはずがない。この十年幾度となく考え、それでも解決できなかった問題だ。むしろ僕は、今現在こうしている事がその答えなのだと思っている。
「私が提案しましょう。あなたはこの町を出て行くべきです。もうこうしてお茶をご馳走して頂けなくなるのは寂しいことですが、あなたにとってはその方が良い。この時間の止まってしまった町を出ることです」
煎れたてのゴルトベルクを彼の前に差し出すと、彼は美味そうに一口すすってそう言った。
確か以前、誰かにそんな事を言われた気がした。しかし記憶を辿ってみたものの、結局思い出せなかった。
8
散り逝く花びらのような鈴の音で目が覚めた。一定の距離を保ち、それでいて無秩序に聞こえるその音は、夜更けと共に僕の側へと近づいてきた。追善の儀が始まったのだ。
そっと深紅のカーテンを開くと、朝靄に包まれた蒼白い世界が見えた。ベールのような朝靄は穏やかな海面のようにゆっくりと揺れているが、ほんの僅かな動作でも消滅してしまいそうだった。
ガウンを纏い外へ出ると、丁度行列の先頭が見えた。顔は確認できないが、先頭は郵便配達員に間違いない。鈴を片手に持ち、朝靄を荒立てないよう列を率いている。上に向けたもう片方の手のひらには、薔薇の種が一粒乗っているはずだ。この後、行列は丘の上の巨樹まで続き、洞穴の元へその種を植える。そして黙祷を捧げ、各々が各々の想いを巡らせ儀は終わる。
僕はドアにもたれて行列が近づくのを待っていた。最後列が一向に現れないのは、今年もほぼ全員の町民が参列しているからだろう。
朝靄に包まれた人々は、まるで羊の群のシルエットのようだった。羊飼いである郵便配達員が笛の代わりに鈴を鳴らすと、それまで微妙に乱れていた調和が静かに元に戻る。僕も、あの群れの中の一匹になるのだろうか?
僕は行列から巨樹へと目を移した。樹高二五メートル、幹周二十メートルのあのクスノキは今何を考えているのだろうか? この年に一度だけやって来る人々を見て、何を想っているのだろうか? キノコ雲のような樹冠は、僕たちをこの草原と共に包み込んでしまいそうだった。
再び鈴の音が響き、行列は僕の目の前をゆっくりと通り過ぎて行く。一瞬郵便配達員と目が合ったが、昨日と同じ彼の表情からは何も読み取れるものがなかった。誰もが限りなく静粛化された歩調で、そして謹厳な表情を心持ち俯け、これから始まる儀に対し受容的な姿勢を露わにしていた。
その時、僅かに風が吹き朝靄が動いた。と同時に巨樹の樹冠の一部が揺れ、数羽の小鳥が一斉に飛びたった。しかしその一瞬の出来事は、誰にも気付かれることはなかった。
参列をやめ部屋に戻った僕は、必要な物を鞄に詰め込み始めた。ランプと最小限の食器、そしてストックしてある全てのゴルトベルク。
数少ない衣類をまとめていると、引き出しの底から懐かしい物が出てきた。白いレースのリボンだった。まるでローラーにでも押し潰されたかのような有様だったが、純白は保たれておりこの薄暗い室内ではとても眩しかった。