時間の止まった町
1
僕は小高い丘の上で横になり、時折頬に当たる穏やかな風や、さらさらとした草の音を感じながら、晴天に浮かぶまだらな雲を見ていた。
普段の数百分の一のテンポでゆっくりと瞬きをすると、面白いほど雲が変容し西へ流れて行く様子が見て取れた。そんな動作を数分程繰り返していると、空は多感な少女のように全く違う表情になった。
『変容しているのは雲ではなく大地である。つまり、地球の回転により雲が流れているように見えるのであり、雲そのものは静止しているものなのだ。また、風という自然現象は地球の回転により発生しており、風の強弱というのは即ち回転速度のムラである』
十年程前まで、僕は本気でそう信じていた。当時六歳だった僕は、いつも空を見上げては地球の回転をこの目で確認していたものだ。空を見上げていると、地球の遠心力と引力を体で感じているような気分になり心地良かった。
ふと視界の角で何かが動いた。そっと上半身だけ起こし注意をはらうと、数メートルほど離れたクスノキの側に一羽の白ウサギを確認した。白ウサギは何かを夢中にかじっていたかと思うと、今度は傍らに茂っているキンポウゲにちょっかいを出し始めた。
しばらくその滑稽なウサギの動作を観察していると、ウサギの方も僕の存在に気付き、僕たちはしばし見つめ合う形となった。それが人間同士ならば若干気まずい瞬間ではあるが、相手が小動物なので全く気にはならなかった。もっとも、ウサギにとってみれば不測の事態であったことだろう。
僕は好奇心を覚え、ウサギを捕まえようとして少しだけ距離を詰めた。途端にウサギは、ビックリ箱に驚いた子供のように後ろへ飛び退いた。そしてその直後、僕の中にえも言われぬ不快な感覚が拡がった。それは胸の中心部を締め付け、熔解した鉛を耳の穴から流し込まれているような気分だった。
そっちへ行ってはいけない……。危険だ……。戻っておいで……。
僕の頭の中で囁く声がした。
しかし僕に驚いたウサギは、ノタノタとクスノキの裏手へと逃げて行く。
だめだ……。そっちへ行ってはいけない……。危ないから戻っておいで……。
僕は囁く声を掻き消すかのように頭を振り、ウサギの後を追った。
クスノキの裏手へ辿り着いた僕は、信じられない光景を見た。それと同時にあの不快な感覚の原因も分かった。
「き、君は……」
一人の少女がクスノキを背に佇んでいた。年齢は六歳くらいだろうか? ノースリーブのワンピースには所々に泥が付いており、せっかくの純白が台無しになっていた。しかし少女はそんな事を気にする様子も見せず、好奇心に満ちた大きな瞳を僕に向けていた。少女の両耳の上で結ばれた髪が時折風に揺れるのを見て、僕は天候の変化を読み取った。しかし、今の僕にはそんな事はどうでも良いことだった。
「き、君は……誰?」
その少女が誰であるかは自分が一番知っているくせに、僕は上擦った声で問いかけた。
僕の喋り方が滑稽だったのか、少女はクスクスと笑いながら僕に背を向けた。そして上半身だけ僕に向き直り、小さな手で手招きをした。ヒラヒラと動くその手のひらは、まるで新緑のキャベツ畑を舞うモンシロチョウのように見えた。
そして困惑しきった僕を尻目に一歩クスノキへ近づいた。
「待って……」
しかし少女は更にもう一歩進み、クスノキに身を寄せた。
「危ないから……戻っておいで」
そして少女はゆっくりと消えて行った。
少女は僕の前から消えてしまった。
僕の両手を擦り抜け消えてしまった。
そこには、少女の髪を結っていた白いレースのリボンだけが残った。
2
カーテンから差し込むボンヤリとした日差しで目が覚めた。光線に照らされた極微量の埃は、炭酸飲料水の水泡のように蠢き光の外へと逃げて行った。
この十年もの間、何度あの少女の夢を見ただろうか? 僕は差し込む日差しが織り成す光の演芸を惜しみつつ、深紅のカーテンを開けた。そこには当たり前のように夢に見た風景と同一のそれが見えた。広がる草原、小高い丘、そしてそこにそびえ立つ巨大なクスノキ。何一つ変わらないいつもの風景。
クスノキの樹高は二五メートル、幹周は二十メートルあり、その樹冠は辺り一帯を覆い隠してしまうほどの壮観だった。地表に露出した根幹は地中深く根をおろし、大地の養分を数百年に渡り吸収し続けているのだろう。
そして丘の周囲には広大な草原が拡がっており、そんな海原の直中に僕の住んでいる小屋は佇んでいた。小屋の前を横切り丘の向こう側まで続いている未舗装の小道は、まるで引き潮の際に現れる海底のようだった。となると僕の小屋はさしづめ、今にも沈没してしまいそうな頼りない小舟と言ったところだろう。
草原は、季節によって表情を目まぐるしく変容させる。風を全身で感じ取り一斉に体現するその様は、正に荒れ狂う大海原に放り出された錯覚を覚えるが、雨の日には新緑の葉から滴る雫を大地へ還元する優しき使者となる。そして草原は季節と共に枯れ色へと変化し、再び青葉となり復活を遂げる。
しかしそんな厳然且つ優美な光景も、あの巨樹の前では色褪せてしまう。いや、すべては丘の上への演出に過ぎないのかもしれない。
小島の様な丘の上にそびえ立つクスノキは、僕の十年来の生体活動に密接していた。睡眠から覚醒し深紅のカーテンを開けた瞬間から、夕暮れてランプに火を灯すまで、そして再び眠りに落ちるまで、僕は可能な限りあの樹形を観望することにしている。風に揺らぐ葉、その葉を支える枝の軋み、樹冠の中で守護されている無数の生物たち、根から養分を吸い上げ体内を流動する音すら聞き逃すまいとする自分がいる。何故なら、それが僕の責務に思えてならないからだ。誰に命じられたわけでもないその責任と義務は、もちろんいつでも破棄することができる。しかし僕には、おいそれとそれを破り捨てることができない理由があった。
僕はクスノキの根幹へ目を落とした。丘を丸ごと鷲掴みにしたようなその根は、いつも僕に畏怖の念を再認させてくれる。そして夜陰に浮き出る巨大な樹冠は、さながら悪魔が己を誇示するかの如く翼を開いているようだ。そして眠りに落ちる寸前の僕に覆い被さり、跡形もなく消し去ってしまうのだ。後に残る物と言えばほんの僅かな公徳心ぐらいだろう。もっともその唯一の僕の残骸ですら、あの丸太のような根本からいとも簡単に吸い取られてしまいそうだ。
僕は眠い目を擦りながらキッチンへ行き、愛飲のゴルトベルクの紅茶を入れた。缶の中には極少量の葉が残っているだけで、どうやらストックももう無いようだ。僕は仕方なく、フィルターに残ったままの古い葉の上に缶を開けた。注がれた熱湯は一端古い葉の表層で滞り、固まりつつあるそれをゆっくりと熔解し、そして褐色の液体となりカップへ落ちて行った。
紅茶を入れ終えた僕は窓際の椅子へ腰を掛け、火傷を負わないように注意深く一口すすり目の前の木製の丸テーブルへカップを置いた。
僕は小高い丘の上で横になり、時折頬に当たる穏やかな風や、さらさらとした草の音を感じながら、晴天に浮かぶまだらな雲を見ていた。
普段の数百分の一のテンポでゆっくりと瞬きをすると、面白いほど雲が変容し西へ流れて行く様子が見て取れた。そんな動作を数分程繰り返していると、空は多感な少女のように全く違う表情になった。
『変容しているのは雲ではなく大地である。つまり、地球の回転により雲が流れているように見えるのであり、雲そのものは静止しているものなのだ。また、風という自然現象は地球の回転により発生しており、風の強弱というのは即ち回転速度のムラである』
十年程前まで、僕は本気でそう信じていた。当時六歳だった僕は、いつも空を見上げては地球の回転をこの目で確認していたものだ。空を見上げていると、地球の遠心力と引力を体で感じているような気分になり心地良かった。
ふと視界の角で何かが動いた。そっと上半身だけ起こし注意をはらうと、数メートルほど離れたクスノキの側に一羽の白ウサギを確認した。白ウサギは何かを夢中にかじっていたかと思うと、今度は傍らに茂っているキンポウゲにちょっかいを出し始めた。
しばらくその滑稽なウサギの動作を観察していると、ウサギの方も僕の存在に気付き、僕たちはしばし見つめ合う形となった。それが人間同士ならば若干気まずい瞬間ではあるが、相手が小動物なので全く気にはならなかった。もっとも、ウサギにとってみれば不測の事態であったことだろう。
僕は好奇心を覚え、ウサギを捕まえようとして少しだけ距離を詰めた。途端にウサギは、ビックリ箱に驚いた子供のように後ろへ飛び退いた。そしてその直後、僕の中にえも言われぬ不快な感覚が拡がった。それは胸の中心部を締め付け、熔解した鉛を耳の穴から流し込まれているような気分だった。
そっちへ行ってはいけない……。危険だ……。戻っておいで……。
僕の頭の中で囁く声がした。
しかし僕に驚いたウサギは、ノタノタとクスノキの裏手へと逃げて行く。
だめだ……。そっちへ行ってはいけない……。危ないから戻っておいで……。
僕は囁く声を掻き消すかのように頭を振り、ウサギの後を追った。
クスノキの裏手へ辿り着いた僕は、信じられない光景を見た。それと同時にあの不快な感覚の原因も分かった。
「き、君は……」
一人の少女がクスノキを背に佇んでいた。年齢は六歳くらいだろうか? ノースリーブのワンピースには所々に泥が付いており、せっかくの純白が台無しになっていた。しかし少女はそんな事を気にする様子も見せず、好奇心に満ちた大きな瞳を僕に向けていた。少女の両耳の上で結ばれた髪が時折風に揺れるのを見て、僕は天候の変化を読み取った。しかし、今の僕にはそんな事はどうでも良いことだった。
「き、君は……誰?」
その少女が誰であるかは自分が一番知っているくせに、僕は上擦った声で問いかけた。
僕の喋り方が滑稽だったのか、少女はクスクスと笑いながら僕に背を向けた。そして上半身だけ僕に向き直り、小さな手で手招きをした。ヒラヒラと動くその手のひらは、まるで新緑のキャベツ畑を舞うモンシロチョウのように見えた。
そして困惑しきった僕を尻目に一歩クスノキへ近づいた。
「待って……」
しかし少女は更にもう一歩進み、クスノキに身を寄せた。
「危ないから……戻っておいで」
そして少女はゆっくりと消えて行った。
少女は僕の前から消えてしまった。
僕の両手を擦り抜け消えてしまった。
そこには、少女の髪を結っていた白いレースのリボンだけが残った。
2
カーテンから差し込むボンヤリとした日差しで目が覚めた。光線に照らされた極微量の埃は、炭酸飲料水の水泡のように蠢き光の外へと逃げて行った。
この十年もの間、何度あの少女の夢を見ただろうか? 僕は差し込む日差しが織り成す光の演芸を惜しみつつ、深紅のカーテンを開けた。そこには当たり前のように夢に見た風景と同一のそれが見えた。広がる草原、小高い丘、そしてそこにそびえ立つ巨大なクスノキ。何一つ変わらないいつもの風景。
クスノキの樹高は二五メートル、幹周は二十メートルあり、その樹冠は辺り一帯を覆い隠してしまうほどの壮観だった。地表に露出した根幹は地中深く根をおろし、大地の養分を数百年に渡り吸収し続けているのだろう。
そして丘の周囲には広大な草原が拡がっており、そんな海原の直中に僕の住んでいる小屋は佇んでいた。小屋の前を横切り丘の向こう側まで続いている未舗装の小道は、まるで引き潮の際に現れる海底のようだった。となると僕の小屋はさしづめ、今にも沈没してしまいそうな頼りない小舟と言ったところだろう。
草原は、季節によって表情を目まぐるしく変容させる。風を全身で感じ取り一斉に体現するその様は、正に荒れ狂う大海原に放り出された錯覚を覚えるが、雨の日には新緑の葉から滴る雫を大地へ還元する優しき使者となる。そして草原は季節と共に枯れ色へと変化し、再び青葉となり復活を遂げる。
しかしそんな厳然且つ優美な光景も、あの巨樹の前では色褪せてしまう。いや、すべては丘の上への演出に過ぎないのかもしれない。
小島の様な丘の上にそびえ立つクスノキは、僕の十年来の生体活動に密接していた。睡眠から覚醒し深紅のカーテンを開けた瞬間から、夕暮れてランプに火を灯すまで、そして再び眠りに落ちるまで、僕は可能な限りあの樹形を観望することにしている。風に揺らぐ葉、その葉を支える枝の軋み、樹冠の中で守護されている無数の生物たち、根から養分を吸い上げ体内を流動する音すら聞き逃すまいとする自分がいる。何故なら、それが僕の責務に思えてならないからだ。誰に命じられたわけでもないその責任と義務は、もちろんいつでも破棄することができる。しかし僕には、おいそれとそれを破り捨てることができない理由があった。
僕はクスノキの根幹へ目を落とした。丘を丸ごと鷲掴みにしたようなその根は、いつも僕に畏怖の念を再認させてくれる。そして夜陰に浮き出る巨大な樹冠は、さながら悪魔が己を誇示するかの如く翼を開いているようだ。そして眠りに落ちる寸前の僕に覆い被さり、跡形もなく消し去ってしまうのだ。後に残る物と言えばほんの僅かな公徳心ぐらいだろう。もっともその唯一の僕の残骸ですら、あの丸太のような根本からいとも簡単に吸い取られてしまいそうだ。
僕は眠い目を擦りながらキッチンへ行き、愛飲のゴルトベルクの紅茶を入れた。缶の中には極少量の葉が残っているだけで、どうやらストックももう無いようだ。僕は仕方なく、フィルターに残ったままの古い葉の上に缶を開けた。注がれた熱湯は一端古い葉の表層で滞り、固まりつつあるそれをゆっくりと熔解し、そして褐色の液体となりカップへ落ちて行った。
紅茶を入れ終えた僕は窓際の椅子へ腰を掛け、火傷を負わないように注意深く一口すすり目の前の木製の丸テーブルへカップを置いた。