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真冬の海

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 「ただいま」
 靴を放り、リビングのテーブルに鞄を置く。自分の部屋は2階だが、寝る時まで上がらない。
 母はわたしを見つけ、おかえり、とほほ笑む。その笑顔はやはり今日も、疲れきっている。ここ数年でみるみる白髪としわが増えた。母のその顔を見ると、わたしはあの女が憎くて憎くてたまらなくなる。
 血の繋がった、姉。一回り年上のひきこもり。オタクの神様。
 今もあいつは私の頭の上で、部屋にこもって、気持ちの悪い漫画を描いている。
 あの女の顔が、目が、浮かぶ。まるで幽霊みたいにこの家に取り憑いている。その幻影を振り払うかのように、わたしは無理に明るい声を作って母のもとに走り寄る。
 今日の晩ごはんはー?と甘えた声で台所に立つ。
 あなたの娘は、わたし。わたしだけ。一瞬でもそう思って欲しくて、学校であったことを話し、おかずをつまみ食いし、笑う。そんなわたしの顔を見て、母はうっすらと笑う。まるでわたしの考えていることを見透かしているように、うっすらと。
 そこへ父が帰ってくる。父もまた、疲れた顔をしている。仕事の疲れ、それももちろんあるだろう。しかしそれだけではないのは、わかりきっている。
 「おかえりなさーい」と、また努めて明るい声で父を迎える。父はふっと、緊張の糸が切れたように微笑み、「ただいま」と言う。
 同じ年頃の女子高生はきっと、父親とこんなに穏やかに会話をしないだろう。沙雪なんていつも父親の悪口を言っている。洗濯物を一緒に洗われた、と大騒ぎをする。なんてベタな、と思うが、それが自然なような気もする。
 うちは、不自然だ。
 上の階で、物音がする。一瞬、食卓がぴりっとする。
 異物だ。この家に、異物が紛れ込んでいる。
 しかし程無く物音は止み、いつもの平穏な食卓の風景に戻る。
 
 郊外の小さな建売住宅には、一階にリビングとキッチンと和室。広くはないけれど、狭くて不便ということもない。二階に部屋がふたつ。和室は両親の寝室だ。二階は、ひとつはわたしの部屋。そしてもう一部屋は、あの女の部屋。
 わたしは階段の下から二階を見上げる。階段を上がってすぐの扉が、あの女の部屋。両親を起こさないように、でもできる限り早くその部屋の前を通り過ぎる。
 自分の部屋の前に立ち、息をひとつ吐く。大島緑から預かった茶封筒を掴み、隣の部屋の前に投げ捨てる。深夜に台所へ下りる時に気づいて拾うだろう。
 なぜか泣きたくなって、乱暴に自分の部屋の扉を開けた。


作品名:真冬の海 作家名:松下要