夢幻堂
番外編 つゆまどろまれず、昔を思へどもあやなし
例えばの話。
俺がこの場所に辿り着かなかったとしたら。辿り着けなかったとしたら。
この世界のイキモノと呼ばれるおぞましいやつらに喰われて消滅していたのだろう。そうだったとしたら、俺の魂ごとジ・エンド。
輪廻転生も叶わない。やつらの腹に収まって、消化されて消滅する。永遠に。
例えばの話。
あるいは、もしもの話。
俺が疎まれることなく愛されて育ったならば、あの母とも呼べない女から無償の愛を授かっていたとしたら、俺はあの場所へ行くこともなかったのかもしれない。
この場所は魂の休息所だから。傷つき、疲れ果ててしまった魂が行き着く先だから。ぬくもりを知っていたのなら、あるいは。
(違う。どんな魂でも道さえあれば着ける……きっと)
《玻璃の金魚鉢》に収まっていたあの金魚のように。自由に生きてなお、出会えたのだから。魂ではない、あの神の依り代となった《吉兆の豆達磨》だって。過去に選択肢なんか存在しないけれど、俺は時々そんな無意味な考え事をしている。
荒唐無稽な可能性。
過去に可能性などありえないのに、俺はとりとめもなく無意識にぼんやりと考えている。
(難しいことはきらいだ)
俺の脳じゃあいつみたくは語れない。
(語る?)
誰にだ。自分自身にか。
馬鹿らしいとさえ思うのに、俺は気が向いたときにふとそんな考え事をするようになった。いつからかと自分自身に問うまでもない。《柩の番人》に封じ込められていた記憶が自分の魂に再び刻まれてからだ。とりとめもなく、ぼんやりとした時間に気づけばぐるぐると考え込んでいる。
(べつに構わないだろう)
どうせ時間は有り余るほどあるのだから。
時々おそろしいほどの退屈に見舞われるこの場所で、答えのでない考え事はある意味歓迎すべきことかもしれない。語り手は俺だ。
するりと音を立てぬまま俺は黒猫姿になる。人の姿でいることがときどき面倒になるのだ。俺は本物の猫がそうするように前足に顎を乗せちらりと窓に目をやる。けれど、ここからじゃ混沌が渦巻く"狭間の世界"は見えない。
あの魂を喰らうおぞましいやつらの姿なんて、これっぽっちの気配もないのだった。この場所もまた、守られた場所なのだと思う。この場所の店主が、神によって守られているように。
(じゃなきゃ、魂のままこの場所から出たら喰われる)
イキモノたちに。問答無用で、やつらは本能のまま魂を喰らって消滅させるのだ。
俺は小さく息を吐いて目を閉じる。
やつらに好き嫌いなんてものが存在するかどうかは知らないが、少なくとも俺はやつらに完全に食われる前に放り出された。いや、その表現は正しくない。実際には救けられたと言うべきだ。不幸中の幸いと言えるくらいで幸運だった。
あのときの俺は無だった。
なにもない。
穴だらけの俺を埋めてくれたのは紛れもなく彼女だ。彼女が慕う"流浪の行商人"でも、ひねくれながらも彼女を見守っていた"夢の渡り人"でもなく。彼女が彼女であったから俺はここに留まり、そばにいることを望んだ。
休息所であるこの場所に、店主でもない俺が留まれた理由は知らない。神が赦したからなのか──とは彼女がよく使う言葉だ──あるいは彼女がそう望んでくれたからなのか。願わくば後者であってほしいと思う。単なる俺の希望だけど。
どうして、と聞きたいようで実は答えを聞くのを恐がっているのは自分かもしれない、と思う。彼女がどうして罰を覚悟で《柩の番人》に俺の記憶を封じ込めたのか、その理由を俺は問うことができなかった。なぜ、と。自分のためじゃなく、どうして関係のない俺のために? 考えたって、俺の思考能力じゃ彼女の考えていることは結局分からないままだ。
もし彼女と出会わなかったら、なんて本当は考えたくもないんだけれど、そうだとしたら俺はきっと無のままで消滅していたに違いない。あいつらに喰われ、あとかたもなく。それを最悪だ、と知ることもなく。俺はからっぽの身体(イレモノ)に無機質な魂が入ってただけの傀儡と同じだったのだから。
結局のところ、俺は彼女に会えたことが傷だらけのぼろぼろで死してからなお絶望しかなかった人生のなかでの奇跡だってことを言いたいだけだ。それこそ砂漠に降るという雪を集めた《淡雪の花びら》の存在に勝る。……と俺は勝手に考えている。
つまるところ、俺は幸せだってことを言いたかっただけなのかもしれない。
小難しいことを考えるのが苦手な俺が、なんでこんなことをつらつら考えているのかと言えば、彼女が店主をつとめるこの場所にいまいないからだ。時々こういうときがある。きっと分かっているんだろうけど、彼女がいないときにこの場所に客が訪れることはない。
(それが店主としての力なのか、あいつ自身が持ってる力なのか、俺にはよく分からないけど)
俺にとって彼女は完璧な存在だった。否、過去形ではなく現在進行形で完璧であると俺は思っている。けれど、完璧であることはイコール強さではない。ぼろぼろに傷つけられても失われなかった完全なる無垢な魂であったがゆえに強くなることを強いられた、のかもしれない。人からも、神からも。……なん
て言ったら彼女は怒るだろうか。
「神、か……」
そういえば、と思う。
時々彼女はどこへ出かけているのだろう。いままではあまり気にならなかったけど、というか気にしなかったけど、ちょっとだけ聞いてみようかという気になっている。
(俺が知らなくても本当はいいのかもしれないけど)
帰ってきたら聞いてみようか。たまには俺がお茶を入れて。
想像して俺はちょっと笑った。自慢じゃないが、お茶を入れるのは得意なのだ。滅多に入れないけど。だから俺が客にお茶を出すことはない。一度もないとは言わないけど、それでも客に出すお茶はあいつのお茶がいい、と思う。彼女の入れるお茶はとても優しい味がするから。その代わり、彼女のためには俺が入れる。ときどき、というかごく稀に。
(俺の役目だと思ってるのかもしれない)
自意識過剰なのかもしれない。でも俺が入れたお茶を飲んで笑ってくれるあいつがいるなら何でもいいと思う。
「……おまえがいないと、俺は孤独だと思うから」
早く帰ってこい、と小さく俺は呟いてみる。なんとなく気恥ずかしいから本人には言わないけど。
(おかえり、なんて言葉、俺は知らなかったんだ)
帰ってくる人がいる幸せを、生きていたころの俺は知らなかった。
ただいま、おかえり、ありがとう、ごめんなさい、なんて。だから独りが淋しいなんて分からなかった。最初から無だった俺の手の上にはなにもなかった。
彼女がくれたものは、俺にとってのすべてだ。俺がただいまと言うことはないけど、彼女がそう言ってくれることで俺は俺自身の居場所を確認できる。ここにいていいんだって、そう思わせてくれる。
(おまえは驚いてたけど、だから俺は望んだんだ)
《吉兆の豆達磨》に。俺が持つ時間のすべてを彼女のために使うと誓った。なにもできないかもしれないけど、そばにいると誓ったのだ。
たとえそれが単なる俺自身のエゴだけであっても。