夢幻堂
「────還るんだ、あいつのいる場所へ。俺はこの過去を受け入れる。哀しくても、忘れようとは思わない。二度と」
還る場所はただひとつ。
記憶を抱いて、俺はその場所へと還るのだ。
「……っ!」
ばちっと開けた視界に飛び込んできたのは、心配そうに見つめる薄茶色の瞳だった。
(なんでそんな顔してるんだ)
そう思って、ああ俺が泣いているからかと気付く。頬に触れればひんやり冷たくて、あれが現実に流した涙だったのかと自覚する。一見寝ているかのように見えたシオンを、カンナはそばにずっとついていてくれたに違いない。ちゃんと壊れずに還ってくるか不安だったんだろうと思う。強くて、凛とした瞳が揺らいでいるのを、はじめてちゃんと見た気がした。
「紅い目のカンナ、見てみたかったな」
ふとそう思ったから、つい言ってみた。寝起きで声が若干かすれていたけれど、カンナはそんなことよりも起き抜けにそんなことを言い出した俺を怪訝そうに見る。
「……いきなりどうしたの?」
「キレイだったと思うから。黒髪で紅い眼で、さ」
ただ単純に思っただけだった。もっと色々話さなきゃいけないことがあったと思うのに、転がり出てきたのはそんな言葉だった。
「神殺しの巫女なのに?」
「違うよ。カンナは神が愛した巫女だったんだ。それを利用した人間が悪いんだ。……だからってカンナの心が晴れるわけでも、カンナが自分のことを赦せるわけでもないってことも知ってるけど。けど、そう思ったんだ。目が覚めてカンナがすぐそばにいて、そう思った」
目が覚めて、すぐそこに見慣れたカンナの顔があって俺はひどくほっとしていることに気付いた。乾いたはずの目尻に熱いなにかが込み上げるのをこらえる。自分の過去を体験してきてなんだってこんな関係ない話をしているんだろうと思いながら。
「俺……お前に出会えて本当によかった」
ゆっくりと身体を起こしながら俺はまっすぐにカンナを見る。彼女がいなければなにもかもを失ったまま、なにも知ることがないままイキモノたちに喰われて消滅していた運命だった。そのことが、いまになってとても恐ろしいことだったと理解できることが嬉しかった。
「あのとき、俺に気づいてくれてありがとう」
ふるふると首を振るカンナの目に、うっすら涙が浮かんでいるのを見て顔がゆるむ。カンナはあのとき、何もなかったままの俺を抱きしめたときと同じように俺の頭ごと包み込んだ。
「………おかえりなさい……シオン」
「《柩の番人》、俺は俺だけじゃない過去を辿った。あれはあんたからの試練だったのか?」
『我は番人であり、試練を与える者ではない。我は主の過去を封じるのみ。受け止めきれるか切れないかは其の者次第。だが───、主が関わったモノやヒトが記憶した真実を視せたのであろう』
「《女神の宝珠》の?」
『否。モノであり、ヒトであり。主が触れたならば、そこから記憶が創られる』
じゃあ、と口のなかで呟く。愛人の女は俺に触れた。俺自身が見たのは最期だったけれど。そして母親であろう女は俺を殺したいがために幾度も触れた。……皮肉なことに。だからあれほど鮮明に記憶が残っているのかもしれなかった。《女神の宝珠》は手に持って生まれてきたという。だとするならば、あれもきっと過去の記憶を生成するうちのひとつであったということだ。だとすれば、父親であろうあの男の記憶がないのも合点が行く。愛人を通じて姿を見はしたが、あの男そのものはおそらく一度も俺の姿を見たことすらないのだろう。かすかに胸が鈍い痛みを訴えるけれど、仕方のないことだった。人となりすら知らない、ただ血のつながりで言うならば父親であった、というだけのこと。
「………そうか」
『主は還ってきた。過去を受け入れ、還ってこられる者はそう多くはない。……夢幻堂店主よ、預かっていた代償を返却しよう』
そう言うと、右手に大鎌を出現させる。漆黒の外套で、そのなかに顔はなくただ深淵の闇のみが存在する《柩の番人》はさながら死神だ。ただ、その鎌の先には白銀の美しい欠片。なくしなくないと願う、カンナ自身の罪の痛み。それは預けたときと同じように、今度は左から右へとカンナの身体を大鎌を薙ぎ払った。
ぶわり、と一瞬夢幻堂に旋風が吹く。カンナの薄茶色の髪とシオンの黒髪が風に合わせて巻き上がった。薙ぎ払われた鎌の先にはもうなんの輝きもない。カンナの大切な記憶の一部が彼女のなかに戻ったのだ。
カンナは自分の胸に手を当て、軽く目を閉じる。自分自身の過去を思っているのかもしれなかった。《柩の番人》は役目を終えた鎌をいずこへやらとしまうと──はたから見れば消えたようにしか見えないが──、左手で持っていた柩を右手に移す。
シオンが触れたときに現れた鍵穴はもうない。漆黒で塗り固められた記憶を封じ込めるその箱には、また華奢な銀の鎖が幾重にも巻かれ、開けるのは不可能のように見えた。あれの口が開いて吸い込まれたことが嘘のようだ。
シオンがぼんやり考えている隣で、カンナは閉じていた目を開け、それをまっすぐに《柩の番人》に向ける。
「………夢幻堂店主となったとき、私はいくつか断片的な記憶を継いだわ。いいえ──本当は、きっと知られなくなかった記憶。でも隠しきれなかった過去の断片。なんだか分からなかった、最初は」
なんの話をし始めたのか、シオンには分からない。だが《柩の番人》の視線がすっとカンナに注がれるのだけが感じられた。
「誰であっても、《柩の番人》に真実を封じてしまったのならば、いつかは刻限が訪れる。いたずらに刻を延ばすことはできない、のでしょう?」
静かな問いに、闇色のフードを被った番人は厳かに応える。
『左様。刻はいずれ満ちる。然るべきとき、然るべき相手に』
一切の無駄を省いた言葉に、店主はわずかに微笑んだ。
「そう──なら、いまではないときで、その記憶は私が解くのよ」
「カンナ……それは夢幻堂店主の予言か?」
話の展開が読めないシオンがきれいな藤と新緑の眼で彼女を見る。その視線にゆっくりと首を振ると、《柩の番人》へと視線をすべらせた。
「いいえ。だけど分かるの。きっと、私はあのひとの過去を知ることになる」
『……その理由を問おう』
相槌を打たずに無言のままだった番人が、珍しく自分からそう問いかけた。
「───……私が去るもので、あのひとが留まるひとだから」
息を呑んだのはシオンだったのか、冷静沈着な《柩の番人》だったのかカンナには分からない。けれど、答えはひとつ。知ってしまった真実を引き延ばしておくことはできないと、カンナは痛いほど分かっていた。だからそう答える。去らなければならないのが決められたはずの規律(ルール)。どんなにこの場所が永遠であろうとも、この場所以外のすべての事柄は留まることを赦されてはいない。
誰に?
────神に。
「永遠で在ることを赦されたのはこの場所だけ。それなのに留まれるのは、自ら歯車から外れることを望んだから。……違う?」
視線を《柩の番人》から外すことなく、カンナはだんまりを貫く彼を見る。わけが分からないのは多分シオンだけだった。
「……カンナ?」
かすかに不安の混じる問いかけに視線は向けないまま、カンナは続けた。