夢幻堂
だが───、それは母親である女も例外ではなく。裾の長いドレスの端に炎が触れる。気づかずに愛人の女を捜してさまよう母親はそのままずるずると屋敷の奥へと進んでいく。バチバチと音を立てているのが自分の背後からだと気づいたときにはもう遅すぎた。甲高い、耳を塞ぎたいほど耳障りな悲鳴が俺の耳に届く。肌は焼けただれ、身体中の水分を容赦なく奪っていく。苦しみにのたうち回りながら母親は繰り返し繰り返し叫んでいた。まるで呪詛のように。
『ゆるさない……ゆるさないわ……』
それはやがて勢いを失っていき、やがては絶える。もう火は屋敷のすべてを覆っているだろう。逃げ場所はもう見当たらない。少なくとも自分の周りはもう暴虐のかぎりを尽くす炎しか見えない。どれくらいそうしていただろう。心に追った傷から立ち直れずに、なにも考えられないままのろのろと立ち上がる。あの狂気をまとった母親が消えたことで恐怖自体は少し薄れていたのかもしれない。さっきまでの"俺"のようにふらふらと定まらない足取りで母親が倒れていた場所へ向かう。自分自身じゃなく、どうしてそちらに往こうと思ったのか、自分では説明がつかなかった。
母親である女は炎に包まれながらも執念なのか大分動いたようだった。俺が投げ込まれた場所よりも少し離れた場所で、ぐずぐずとなって倒れていた。その手には掴んで離さなかった《女神の宝珠》がある。
「こんな、もの……どうしたかったんだよ……」
呟きは熱風に攫われる。ふと、あの日記を思い出した。自分と同じ二色の眼を持って生まれ、あの牢獄へ囚われた俺の先祖。そして、あの甘い毒を持った愛人の女が、母親であったこの女に伝えたこと。
左右で色の違う眼を持つものは、《女神の宝珠》を持って生まれてくるという。それが絶対のルールであるのか、それともたまたまであるのかシオンは知らない。ただ、そういう呪いとやらがもしあるのであれば《女神の宝珠》はずっとこの家系が持っていたはずである。
(《女神の宝珠(あれ)》が複数あるとは聞いてない)
けれど、たったひとつしかない、ということも聞いたわけではない。だが、珍しいものは二つとないから重宝されるのだ。現に夢幻堂にあるもののほとんどがそうだ。手に入りにくいか、たったひとつしかないか。
────この子はきっと、シオンと同じ
不意にカンナの声が蘇る。そうだ、あれはいつだったか、まだ言葉も不自由な幼子が夢幻堂を訪れたときのことだ。首に掛けられていたそれを幼子は舌ったらずに「宝物」といい、カンナは慈しむようにそういったのだった。
「……マナ……おまえは未来のこの家に生まれたのか……?」
眼の色を隠されて育って。けれど、マナは愛されていたとカンナは言った。愛(いつく)しんでいたからこそ、大事な秘密を隠していたのだと。だとすれば、流れる月日の中で忌まわしいとされた二色の瞳の子供は愛されるようになっていったのだろうか。いや、あの当主だと思われる男──血のつながりで言えば父親であろうが──も息絶え、母親であったあの女も炎に巻かれた。もちろん俺は器を失って"狭間の世界"へ行ったのだから生きているはずもない。残る選択肢としてはあの愛人であった女だが、それはもう牢獄にいたはず女のことは分からない。思いをめぐらせたところで何かが変わるわけでもないけれど、シオンは無意識に細く息を吐いて唇を震わせた。
「あの女じゃなければ──…」
俺はマナのように愛されたのだろうか、と言う前に喉がひくりと鳴った。落ち着けようと思って息を大きく吸っても吐いても余計に肩が震えるだけだ。自分の意思とは関係なく、喉も肩も瞼も。
「なん、で……」
そう呟いてこらえきれずに目を閉じる。ずきんと傷のないはずの胸に鈍い痛みが走る。思わず手で押さえたところで治まるはずもなかった。身体が傾ぐ。炎でぼろぼろになった絨毯に座り込むようにしてただ痛みの治まらない胸をかきむしるように握る。怒りでも恨みでも憎しみでもない、ただ空虚でぽっかりと穴があいている。なのに、どうしもようなくひとりで、それを心がいやだと叫んでいる。シオンは静かにゆっくりと閉じた瞳を開けて、ああ、とため息をついた。
(これが悲しい、なんだな……)
生まれて死んで夢幻堂に辿り着いて、はじめて感じたもの。知らないでいられたから、何も感じなかった。理解すらできていなかった。こんなにも冷たい環境の中で、俺はそれでも生きていたんだと知って。
落ち着きかけていたはずの肩が震え、ゆらりと視界が歪む。
「目、熱い……」
呟けば、ぽたりと頬を伝って透明な雫が落ちる。うつむけば、重力に任せてぽたぽたととめどなく落ちてくる。
(涙、泣く───止まらない)
どうして俺は泣いているんだろう。思い出も思い入れも執着もなにもなかったはずなのに。だけど感情を知った俺は過去をもう一度体験することで、ひとつずつ感情を嚥下していく。それはひどくつらい作業だ。己の過去を俯瞰しながら再体験、なんて普通じゃありえない。
「……知らなくてよかった……」
あのころに、と呟く声は嗚咽に変わる。分からなくてよかった。理解できていなくてよかった。心から。だって知ってしまったら俺は発狂して壊れていた。あの母とも呼べない女のように。
「────あい、され……たかっ…た、なん……て」
(思えなくて……よかったんだ)
彼女が見つけてくれて救われて、教えられたいくつもの優しい感情を。あたたかさを。知らなくていいなんて言えない。だけど、この時に知っていたら俺の魂は粉々になってしまっていたんだろう。
情なんてない。恨みも、憎しみも、憐れみも、愛しさもなにもないけれど、それでも俺はきっと本能であの母とも呼べない母の愛情を求めていたのだ。それか、母だと思い込んでいたのかもしれないあの愛人の女に。
「……だから……俺はあのとき叫んだんだ……」
いつか見た夢。俺は確かに助けを求めていた。《柩の番人》に記憶を預けられていてもなお魂に刻まれていた想い。言葉なんて、感情なんて知らなかったけど。死ぬ瞬間、たすけて、と聞こえた。ちゃんと。
「ちゃんと生きてた……あんな場所でも、俺は」
死ぬ瞬間になってようやく、俺は生きたいと願った。……願う、なんて言葉も意味も知らなかった"俺"だけど。からっぽだと思っていた"俺"の身体にもちゃんと心はあったんだ。
紅蓮の炎。広大な屋敷をあざやかに染め上げていく。美しく、残酷に。
その中で"俺"は叫んでいた。「たすけて」と。転がり出てきたその言葉を。だれもあの地下の牢獄を思い出すことも振り返ることもしなかったけど。"俺"はあの女に慈悲もない力で絞め殺され、そのまま踊り狂う炎に包まれた。苦しんで苦しんで生き地獄を味わいながら死んでいったのだ。
ズキリと全身に激痛が走る。これはあのときの"俺"の痛みなのか。
(いや──……、こんなもんじゃないはずだ)
目に灼き付けておけと、この記憶をもう二度と忘れることはできないのだと、《柩の番人》からの戒めだろうか。それとも、壊れるならば壊れてしまえと?
(そんなのは)
「ごめんだ」
とめどなく溢れてくる涙を拭おうとはしないまま、俺は薄れていく意識の中で呟いていた。