夢幻堂
なぜ彼女が鍵を持っていたかなんて知らない。こんな未来を予測していたとでも言うのだろうか。女は動こうとしない俺の腕を掴むとむりやり立ち上がらせる。長年歩いたりすることのなかった"俺"の身体はちゃんと立っていることすらできなくてふらふらしている。けれど、座り込もうとするのを阻まれ、引きずられるようにして昏い牢獄の外へと押しやられる。そして完全に身体が檻の外から出ると、今度はがしゃんと檻が閉まる音がした。のろのろと"俺"が状況も分からず女を見やる。自分がいたはずの牢獄のなかに女がおさまっている。空洞のままの俺の眼を見ながら、愛人の女は"俺"の頬に手を伸ばして、そっと撫でる。まるで本当に慈しむかのように。そして、いままでで一番美しい微笑みで、極上に甘い響きで囁いた。
『……自由をあげるわ。最期にね』
とんっ、と身体を押される。立っていることに慣れていない身体はわずかな衝撃でもよろめく。行け、とその眼が語っていた。言葉もなにも分からない"俺"がどうしてこの女が言った通りにしたかなんて覚えちゃいない。だけど、確かに俺自身はこの冷たい檻のなかから出されて、言われるがままに石造りの階段を上ったのだ。逆らうなんて選択肢はきっと俺のなかにはなかった。理由なんて知らない。強いて言うなら、きっと俺は自分でも無意識の間にこの女にすがりたいと本能で思っていたのかもしれない。歪でも、毒が仕込んであっても、いつわりの愛でも。きっと本当は飢えていた。昏くて冷たい地下の牢獄で、どんな理由でも触れてくれたのはこの女だけだったから。
(愚かだ……だけどそれしか知らなかった)
俺は"俺"が無言のまま女に背を向けて階段に向かうのをぼんやり眺めていた。追いかけようとは思わない。どうせまた勝手に画面が変わっていくに違いない。これは気持ち悪いノイズ混じりの過去の残像のなかなのだから。それよりもこの女の行動のほうが不可解で、興味を引く。炎の爆ぜる音と、この女が愛した俺の父親の男が火だるまになったということから、この屋敷はかなり燃えてしまっているのだろう。まさかここにいれば助かるなんて思っちゃいないだろう。きっとその逆だ。
女は、よたよたと歩く背中を見送って、手にしていた鍵を無造作に落とした。じゃらんと盛大な金属音が石造りの湿った地下牢に響き渡る。自らの身体を檻のなかに閉じ込めて、冷たく湿った壁に背中を押し付ける。ずるりとそのまま座り込んで美しく凄絶に微笑んだ。
『ねぇ本当よ……』
女はだれもいない牢獄の中で独り呟く。だれに向けてなのかはよく分からない。かわいそうだと偽物の憐みを向けていた俺自身に対してなのか、愛していたというあの男に対してなのか、はたまたその妻であった母親である女に対してなのか。
『あなたがあたくしの子なら……本当に、その眼の色が違っていたって閉じ込めたりしないわ……ちゃあんと愛してあげたのよ……』
本当よ、と繰りかえすこの響きにいままでのような毒が混ざり込んでいないように感じられてうろたえる。熱で頭がやられたのだろうか。
「なんなんだよあんたは……」
治まっていたはずの怒りが沸き上がる。怒りだけじゃない。憤りと、心臓のあたりをきゅっと掴まれたような痛さが同時に襲う。
『……愛してあげたい、って思ったんだけれど……ね。どうしてかしら……どうしてもゆるせなかったのよ……』
ほっそりとした白い腕を力なく持ち上げて、"俺"がよろよろと上っていった階段へと伸ばす。吐き出した吐息は震えていた。
愛してあげたい────けれど、できなかった。その想いが嘘だとは感じられなくて、どうしてと思う。どうしていまさら。
炎の爆ぜる音はもうすぐそこだ。燃えるようなものなどあまり見当たらないが、それだけ火の勢いは強いのかもしれなかった。実体のない俺が感じ取れるはずもないのだけれど、つんと鼻につく煙のにおいと肌を灼く熱さが取り囲んでいると分かる。まるで本当にこの場所にいるみたいに。女はもうぼんやりと虚空を見たまま動かない。きっと火の手がこの場所を包囲しても変わらず座ったままなのだろう。
動くこともできたはずなのに、この場を立ち去ることができない。俺はきっと自分自身を見なければいけないのに。
(違う)
動きたくないのだ。自分の意志で、俺はここにいたいと思っている。だけれど、この自分の意志とは関係なく進んでいく過去の残像は容赦なくその想いを阻む。動きたくないと願った瞬間から、視界がぶれる。
「……消えるな」
うわ言のように呟く。
(見たい───最期まで)
偽りに思えなかったあの響きを聴いていたいと思うのは、もう毒に冒され続けてしまったからなのか。吐き気がするほどの甘ったるい毒は、さながら中毒のように狂わされるものなのかもしれない。
愛したかった、のなら、愛そうと努力をしたということだと思いたいのかもしれなかった。それはひどく自分勝手な憶測だけれど。ノイズまじりの追憶はだんだんと女の姿を掠れさせて、その姿を塗りつぶされていく。
「……俺、は………」
喉まで出かかった想いは、そこで引っかかって出てこない。こみ上げるなにかをこらえながら、冷たく湿った牢獄でただ座り込む女の姿が完全に見えなくなるまでずっと見つめていた。
メキメキと色んなものが壊れる音がする。そして終止絶え間なく聞こえるバチバチという焰の音。勢いを増すばかりの火は、その熱気でもって人の肌すら壊していく。ノイズ混じりで遮られていた視界が少しずつ晴れてくる。それによって、豪奢な屋敷のなかが見るも無惨な姿に変貌していることを知る。美しく置かれた調度品はいくつも割れ、赤い絨毯の上に散らばっている。壁はもともと石で造られているのか、あまり焼けた様子は見られないが壁紙から分厚いカーテン、そしてふかふかの絨毯はうねる竜のように暴れ回る炎に巻かれ、光を取り込んでいた窓のガラスを粉々に砕いていく。
「そこまでしてあれを手放したくないのか……自分の命すら放り投げるくらい?」
逃げ惑う人たちの姿が遠くに見えた。けれど逃げ後れて聞くに堪えない断末魔をあげながら火だるまになっていく人間と、すでにぶすぶすと嫌な音とにおいを放ちながら息絶えてしまった人たちの姿が呆然と歩いている自分のそこここに見える。こみ上げる嗚咽をなんとか嚥下しながら俺は自分自身を探す。この炎のなかで、しかも歩き慣れてもいない子どもの足で、炎に巻き込まれないわけがない。もう俺自身も息絶えてしまっているのかもしれなかった。それに、
「あの女はどこだ? 自分だけ逃げたのか?」
立場だけは自分の母親である女の姿が見えない。自分の夫に火をつけたのは十中八九あの女だろう。よくもまあそんな恐ろしいことを実行できたものだと、苦く思う。べつにあの父であろう男を好きになれるはずもないが──というよりもむしろ軽蔑に近い感情を持ってはいたが、だからといって死ねばいいと思ったわけではない。
(………多分)
たとえ思ったのだとしてもそれを実際に実行するかどうかはまたべつの話なのだ。そうまでしてあの《女神の宝珠》を手元に置いておきたかったのか。たかが宝石ひとつのために。それかよほど知られたくない秘密でも抱えているのか。