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夢幻堂

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 見方によって赤にも紫にも青にも緑にも、不可思議に色を変える宝石。それは間違いなく《女神の宝珠》だった。母親である女はもはや声の出し方すら忘れてしまったようだ。だが、鬼のような形相で愛人の女を睨んでいる。愛人の女はあでやかな微笑みでそれを躱し───なぜかそのネックレスを母親である女の首にとてつもなく優しい仕草で掛けなおした。
『でもご安心なさって、奥様。言いつけたりなんかはしませんもの。けれど、それなりの対価はいただきますわ。……ああ、そんなにらんだりなさらないでくださいな。べつにあの人に言ってしまってもかまわないのですけれど? おいやでしょう? 二度とこのお屋敷に足を踏み入れることができなくなってしまいますものね。話が逸れてしまいましたわ。対価というのは奥様、あなたの地位をあたくしに譲ってくださることですの』
『なにを勝手なことを……っ』
『あら、選択は二つに一つですわ。あるものをないとおっしゃった奥様の罪によってさばかれるのと、ご自分から身を引かれることと。どちらが奥様の名誉を汚さないかなんて、明白ですのに』
『そんな強引なことが通るものですか! わたくしはなにも知らないわ! 勝手な憶測はやめてちょうだい。無駄なおしゃべりはもううんざりよ』
 震える青い唇でそうまくしたてて、きびすを返す。愛人の女は追いかけるでもなくただ悠然と微笑んで、その背中に声をかけた。
『お返事は今日の夜、お待ちしていますわ。少しでも過ぎましたら、あの人があなたの罪を知ることになると、ゆめゆめお忘れになりませんように。築き上げた権力を、手放したくはないでしょう?』
 毒を塗りたくられた言葉の刃が、母親である女に突き刺さる。俯瞰している俺ですら、無意識に身体をこわばらせて息を詰めていた。なにかいやなことが起こる───ただの勘だったけれど、なぜかそう強く思った。
 視界が暗くなる。相変わらずノイズ混じりの景色。加えて感じる陰鬱な湿気をたっぷりとまとった空気に気持ち悪くなる。画面──あるいは画像? ともかくも、あの場面から違う時間軸へと引きずられたのだと感じる。自分の意志とは関係なく、ときは進んで、あるいは過去へ戻っていく。
(これはあの場所だ。あの牢獄の、無数の眼の……)
 俺自身の姿は見えなかった。でもかすかな息づかいは聞こえる。澱んだ空気に熱気が孕む。冷たさ以外に感じることがなかったこの地下の牢獄で熱を感じるなんてあるわけがない。
『気が触れたのかしら。あたくしの言葉でこんなにも狂ってしまわれるなんて』
 愛人の女は妖艶な微笑みを崩さないまま、弱いわね、と呟いた。陶器のようになめらかな肌は煤に汚れ、つややかなウェーブの髪も熱風にやられたのかところどころ焦げてぼろぼろになっている。俺自身はなにが起こっているかなんて知りもしなかったし、知る由もなかった。この瞬間にこの女がいたことすら俺の記憶には残っていない。人を人として認識できていなかったのだろう。女は黒く錆びついた檻に手をかけ額を押し付ける。
『あの人も逝ってしまったわ……もうあたくしも生きている意味などないの』
 この炎によってなのか、殺されたのか。俺には分からない。ただ目の前にある光景を眺めることしかできない。そもそもどうしてこの女はこの場所へと足を運んだのだろう。目を凝らせば暗がりで空虚な目玉を女に向けている自分の姿があった。まさか俺に逢いにきたわけもないだろう。だとすれば、策士とも言えるこの女はなにかを企んで俺のそばに来たはずだった。なにを言われたのか、またはさせられたのかなんてなにひとつ覚えているわけもないのだけど。
『ねぇ、信じられる? あたくしの最愛の人は火だるまになってなにも残らなかったわ……こんな暴虐が赦されていいのかしら? いいえ、いいわけないの……そう、赦されないのよ……』
 うわ言のように繰り返す。それは俺を見ているようで、俺を通した誰か──父親である男のことに間違いないだろうが──を見ているのかもしれない。あの男と似ているなんて考えたくもないけれど、血の繋がりというものはそう簡単に切れるものじゃない。どんなに否定したってどうせどちらかには似ているのだ。
(そうか。死んだのか)
 どうでもいいことをぼんやりと考えながら、女の言葉から状況を把握する。パチパチと何かが爆ぜる音がするのはこの大きな屋敷が燃えているからだ。おそらく母親であるあの女がつけたのだ。すべてをなかったことにするために。俺のことなど、頭にないだろう。死ねばいいとすら思っているのだろうから当然だ。煙のいやな匂いがこの地下の牢獄にも浸食しはじめる。実際にこの場にいるわけではない俺自身はべつに苦しくもなんともない。ただいやな匂いが立ちこめている、と思う。
 女は生気を失った眼で人形のように声すら上げない俺を見下げた。唇は笑みをたたえたままだった。もうこの女の癖なのかもしれなかった。牢獄に押し込められている俺自身はもちろん、愛人の女もなにも発さなかった。炎の爆ぜる音がかすかに大きくなっていくのだけが分かった。どれくらいそうしていただろう。女は檻の隙間から細い腕を差し出し、かろうじて届く距離にあった"俺"の手に触れる。
『愛もなく、あの人との子さえ愛さず……ほしかったのは権力だけ。あたくしだったら、たとえどんな子でも愛してあげたのに……ねぇ、とってもかわいそうだけれど……あなたはあたくしの子ではないのだもの。愛情も言葉も感情もなにも知らずお人形さんみたいなあなたを、愛してあげられないのはとても不憫に思うのよ? だけど、ねぇ、しかたがないわ。あの人の血が混ざっていることも分かってはいるのだけれど、愛せないのよ。だけれど、かわいそうだわ……そう思う心は真実なのよ?』
 ふぅっと細く息を吐く女の姿はあちこちがぼろぼろになっていてもなお艶めかしい。研ぎ澄まされた刃のような美しさをまとっている。潤いに見せかけた甘い毒が、空っぽな俺の身体を侵食していく。意味は分からなくても、感情を知らなくても。
「っ……やめろ」
 毒があると分かっているのに耳朶に響く声は限りなく甘い。かつての俺には届かないその声音はいまの俺の心に突き刺さる。かわいそうなんかじゃないと叫びたいのに、声が喉に詰まって出てこない。座り込んでいる俺自身は、自分の手を女が引き寄せたというのにも関わらず、いっさいの感情を含まないまま、ただ動かされている方向にだけ視線を向ける。その手が離れ、かしゃんとなにかが外れる音がした。キィ、と音を立てたのが、開いたことのなかった錆び付いた檻の動く音なのだと気づく。いや、当の俺自身はそれがなにを意味するかなんてまったくもって分かっていないのだけれど。なぜ、と頭の中で疑問ばかりが募る俺の耳に、微笑を含んだ声が届く。
『行きなさいな、檻の外へ。階段を上った先になにを見るのか───感情を宿さないあなたがなにを思うのか……それ以上壊れてしまうのか、少しだけ興味があるけれど、あたくしは行かないわ。……さあ───、お行きなさい』
作品名:夢幻堂 作家名:深月