夢幻堂
考えるより先に言葉が転がり落ちた。魂の休息所である夢幻堂に辿り着いた幼い子が持っていたもの。光の加減によって輝きを変える不思議な宝石。それは、なにかを守るために存在するものだったはずだ。どうしてこの肖像画に描かれているのか。ぱらぱらと日記をめくってみてもそれらしいことはなにも分からない。一行だけ、"この美しい宝石"と書いている。おそらく《女神の宝珠》を指しているのだろう。その力も、きっと知っていたに違いない。
(大事な秘密をひとつだけ守る)
そう言ったのは優しい夢幻堂の店主だ。けれど、もしこの《女神の宝珠》の力を目の当たりにしたのなら?
(眼の色を隠すためだったなら)
美しい二色の瞳は何色へと姿を変えたのだろう。そしてその力は悪い意味で多大な影響を与えたに違いないのだ。
地下の昏く淀んだ鉄の牢獄の中で視た、あの色とりどりの眼。あれは、あの冷たい牢の中で亡骸となった人たちだ。色とりどりの異端の眼だと、忌まわしき呪いなのだと理由も分からぬまま糾弾されて閉じ込められた。
「たった、それだけのことだったのにな……眼の色が違うって、ただそれだけだったのに」
たったそれだけのことが、二色の眼を持たない者にとってはたったそれだけとは言えなかった。少数だから罪なのか、異端だから罪なのか? そんなこと、ありはしないはずなのに。何も力など持ってはいないのに。《女神の宝珠》にはなにか不思議な力があったんだろう。だけど、少なくとも俺自身にも、きっとあの場所で果てていった俺と同じような人たちにも誰かを呪う力も、殺す力もありはしない。
やるせない感情が渦巻く。だとしても、いま自分が俯瞰しているこの過去は変えられない。どんなに自分が憤ったところで何も変わりはしない。これはもう過ぎ去った出来事なのだ。足からふらりと力が抜ける。そのまま逆らわずに文机に背を預けた。どうせ埃なんてつきやしないのだ。そんなどうでもいいことを頭の片隅で思って、うつむく。少し伸びた黒髪が視界に入るのが気になって、右手をその黒髪にうずめてきつく頭皮を引っ掻く。軽く目を閉じたまぶたの裏に、フラッシュバックのように知らない映像がノイズ混じりの汚い画質で目の前を通り過ぎていく。いや、あるいは脳裏を駆け巡っているのかもしれない。それは唐突で、すべてがとりとめもなく浮かんでは消えていく。
『あの女さえいなければすべてわたしのものなのに! ……ああ、忌まわしい……あれが異形でさえなければすべてはわたしのものだったのに!』
甲高い悲鳴のような耳障りな声。喚き散らす女の形相は、むしろどんなものよりも異形に見える。
「……忌まわしいのはあんたじゃないのか」
低く唸って俺を生んだ女をなじる。忌まわしいというその子どもを生んだのは自分のはずなのに、その責任はすべて俺のせいだと言っている。身勝手で、はじめて殺してやりたい、と思った。ギリ、と歯を食いしばると、その顔がぶれて歪んで違う女の顔になる。
『あたくしだってべつに鬼じゃないわ。あなたのこと、かわいそうだと思っているのよ? 本当に、かわいそうだわ。でもごめんなさいね。あたくし、あの女が大嫌いなのよ。そう、あなたを生んだあの女よ。だって、愛されているのはあたくし。……ああ、ごめんなさいね? 言ったってあなたには分からないわよね。言葉なんて教えられていないんですもの。かわいそう、と憐れむ気持ちくらいはあるのよ? ねぇ、覚えていなさいな。本当に愛しいのなら、こう叫んでご覧なさい。助けて、おかあさん、とでもね?』
とろけるように甘い響きに隠された強烈な毒。絡みとられたら解毒は不可能。それでもあのころの俺はきっと心のどこかですがっていた。
"たすけて"
"おかあさん"
叩き込まれたたった二つの単語。それすらも、
「……毒の一部だったのか」
嗤う気力すらない。文机にもたれてずるずると座り込む。二度と立ち上がれない気がした。
『死なん程度に生かしておけ。あの血筋を絶やしたいのも山々だが、あれがいなくなってまた言い寄られるのも面倒で不快だ。地下の牢屋が開いていただろう。二色の瞳の連中を閉じ込めていた、あの場所だ。どちらにしろあれも二色だと聞いた。だとすれば似合いの場所だ。あの瞳は呪いを招くという。すべて絶やしたはずなのに、また生まれてきた。……面倒なことこの上ないな』
「────この外道。だったらてめぇが入ってみろ」
薄く眼を開いて、その父親である男が疎んだ二色の眼で睨む。ノイズ混じりの残像は消えずにまだ目の前にある。だが、伸ばしたところで手は永遠に届かない。それでもその首に手を伸ばそうとした瞬間、ざらっと残像は消えてふたりの女の姿に変化した。
『教えて差し上げるわ、おかわいそうな奥様』
『かわいそう? かわいそうですって!? 卑しい身分のあなたから教えていただくことなんてなにもありませんわ!』
『あら、そんなことをおっしゃってよろしいのかしら? それさえご存じだったなら、おかわいそうな奥様、あなたのご子息だけはかわいがられたかもしれないのに』
そういって俺に毒を浴びせ続けた女は、妖艶な笑みを浮かべる。毒のように赤い唇が魔女のようだ。その笑みに気圧されたのか、母親である女は一歩後ずさって引きつった顔を浮かべていた。
『……わたくしはここの女主人よ! 隠しごとなんてゆるさないわ。言いなさい。これはわたくしの命令です』
強がっているのは明白だ。愛人の女も分かっているだろう。微笑みを絶やさないまま、母親である女に一歩ずつ近づいていく。逃げることもできたはずなのに、母親である女は金縛りにでもあったかのごとく動けなくなっていた。笑みを浮かべたままの赤い唇が、母親である女の耳元のすぐそばに──ささやき声が聞こえるほどの近さだ──ぴたりと寄り添う。
『ご子息がお生まれになったときに、彼が握っていたものはどうされたのかしら?』
『な……ん、です…、って?』
『不思議な輝きを放つ美しい宝石───それは、二色の瞳を持つものが必ず握って生まれてくるそうですわ。なぜなのかは、存じ上げませんけれど。あの人がそう言っていましたの。大事なものをひとつ、守ってくれるのですって』
母親である女から血の気が失せた。顔面蒼白と言っていい。それはその宝石のありかを知っていると自白しているようなものだった。愛人の女は、よろめきそうな相手の肩にそっと手を置き、さらにささやく。
『ねぇ、奥様? あの人がそれを欲しがっていることを、ご存じないのかしら。いいえ、そんなことはありませんわね。だって、奥様はあの人からお聞きになっているはずですもの。ご子息がお生まれになったときに、宝石を握っていなかったか、って。奥様はない、とおっしゃったのでしょう? けれど───それはうそでしょう?』
肩に置いていた手がするりと鎖骨を撫でる。母親である女が身をよじるよりも前に、そのふくよかな胸の谷間に手を伸ばしてなにかを引きずり出した。
『奥様? これはいったい、何の宝石かしら?』