夢幻堂
探していたのはこの部屋だ。間違っているはずがない。おびただしい人の顔は、すべて肖像画。ぎゅっときつく目を閉じて五秒ほどじっとする。そのままゆっくりと目を開ければ、目は暗さに慣れていく。俺は吸い寄せられるようにしてぼんやりと数えきれない肖像画たちの近くに寄る。みんな、若く美しい人たちだった。女性もいれば男性もいる。子どもの肖像画も少なくない。色とりどりだ、と呟きかけて俺は止まる。
「……眼の、色……」
シオンは無意識に呟いていた。目の前にあるのは、エメラルドのような翠にやさしいラベンダー色の眼を持つ、美しい女性の肖像画だった。その色は、シオンの眼の色にとてもよく似ていた。どくんと心臓が大きく跳ねる。ようやく慣れてきた目で部屋を見回せば、左右で異なる眼をした人物の肖像画だらけだった。むしろ、それしか見当たらなかった。桜色に淡い金色、透き通った青と薄いグレー、ルビーのような濃い赤に漆黒、数えきれないほどさまざまな色の眼。
美しかった。それは妖しさも含んだ美しさだ。きっと手入れはされていなかったに違いない。額は埃にまみれ、絵の具は乾ききってひび割れているものもある。無造作にそこらへんに捨てられているようなものさえある。
「あんたたちも……あの牢獄にいたのか? 俺と同じように」
そうじゃなきゃ、あんな色とりどりの眼があるわけない。ごく自然にそう分かってしまった。あれは俺自身に繋がる血脈だったのだと。
受け継がれてきた血脈。
二つの色を持つ眼。
だれから始まって、どこまで続いているのか。
あるいは終わったのか。
はたまた───先祖返りなのか?
後ずさって、どん、と背中になにかが当たる。黒いシーツのようなもので覆われたグランドピアノだ。これも埃がかぶって黒を灰色に変えている。
「なんだよ───これは? なんなんだよ!」
目を逸らしたくなる。でもだめだ。逃げてばかりではなにも分からない。知らないままでいるなんてことはやめると決めた。ピアノやらソファやらがごちゃごちゃと置かれた部屋を見渡す。もとは優雅に酒や茶をたしなみながらこのピアノの音色でも聴くような場所だったのだろう。いまとなっては埃まみれで座ることすらためらわれる。
「くそ、暗くてよく見えないな。……カーテンでも開けられりゃいいけど、さすがに無理なんだろうな……」
物体に触ることはできても干渉することはやはりできないようだった。グランドピアノを覆うシーツを剥がせない時点でカーテンを開けることも諦める。恨めしげに分厚いカーテンを睨みつけ、ふと部屋の隅に文机があることに気づく。手がかりもなにもないのだから、とりあえず手に取れるものは見ておきたい。そばに寄れば、例に漏れず埃をこんもりとかぶっている書物が所狭しと並べられている。引き出しくらいなら開けられるかと、音をしないことをいいことに文机を漁る。
「カーテンは開けらんないのに、なんで引き出しは開くんだか。基準がよく分かんないな」
《柩の番人》にいいように操られているような気がしないでもない。なんとなくもやっとするが、いまはそんなこと言っていたって仕方がないのだ。ごそごそと漁っている指先に、カサリと紙の感触があった。そっと引き出してみれば、一冊の薄い冊子だ。いや、日記と言ったほうがいいのかもしれない。明らかに並べられている本とは装丁が違っている。手に取れたのだからきっと読めるのだろう。ぱら、とページをめくる。
『いつから歪んでいたのだろう。
それすらも、私にはもう分からない。
ただ分かるのは、私の、私たちのこの二色の瞳が忌まれていることだけだ』
真面目さを思わせる几帳面な字だった。ただ、その文字がかすかに震えていることに気づく。なぜ読めるのかなんてことはもうどうだっていい。これは自分と同じ、二色の眼を持っていた人の記憶だ。
『明日、いやもう今日かもしれない。私はきっと閉じ込められてしまう。
かつて、拷問のために造らせたという暗い牢獄に。
私がいったい何をしたというのだ?
二色の瞳を持っていても特別な力など持っていない。ましてや人を呪う力など、この世にあるはずもないのに、なぜあの人たちは信じて疑わないのだろう。
ああ、もうなにも信じられない。逃げてしまいたい。けれど、もはやそれも叶わない。
自ら死を望むことはそう難しいことではない。
だが、私がそうすれば遺された者たちはどうなるのだろう。
私ひとりの命ならばいくらでも差し出そう。だが、彼らは受け入れないだろう。
なぜだ? いったいなぜ? 二色の瞳を持つことがそんなにも罪か!
いや違う。私の持つ、この美しい宝石を厭うか、あるいは奪うためか。
ああもうなにも分からない。何一つ。
どうか、願わくばどうか────神よ。
二度と私のような者が現れないよう。
二色の瞳を持って生まれた者が苦しまないよう、お護りください。
どうか、どうか───……
ああ、足音が聞こえる。
私を捜す怒号が聞こえる。もう猶予はない。
きっと私は二度と陽の光すら拝めずに果てるだろう……』
日記はそこで終わっていた。理由すらなく、この日記を書いた人間は囚われ、俺がいたあの牢獄へ閉じ込められたのだろう。
「神、か。あんたはその存在を知っていたから祈ったのか。神がなにもしてくれないと知っていたとしてもあんたは祈ったのかな……」
すべてを読み取れたわけではない。でもきっと二色の瞳は珍しかったのだ。人は自分たちと異なるものを厭い、排除したがる。言葉も感情もなにも知らなかった俺とは違って、この人は大人で色んなことを知っていたんだろう。俺には多分、その恐怖は分からない。でも苦しいと感じる。
(でも、この人も俺と同じだ。どうして、って叫んでる)
疑問は巡りめぐって、降りかかる。理由なんて、あってもなくても変わらないのかもしれない。この眼の色が二色である限り、ずっと嫌われ続けた。胸が痛くなって無意識にそこを手で押さえる。日記を読むために落としていた視線をのろのろと上げれば、可憐な唇を引き結んで背筋を凛と伸ばしている少女の肖像画と目が合った。まっすぐにこちらを見つめる二色の瞳からは感情のひとつも読み取れない。
「……この日記があんたかどうかも分かんないけどさ……苦しかった、よな。なにも分からなかった俺よりずっと。拒絶されて、ひとりぼっちで……」
シオンはこちらを見ている肖像画の美しい少女に向かって呟いていた。答えがないことなんて分かりきっていたのに。じっと見つめたその眼は宝石のように美しいアメジストと、瑞々しい薔薇の色をしていた。
「呪いだなんて考えるほうがどうかしてる。頭おかしいのはどっちだ────ん?」
悪態をつきながら肖像画を見ていた俺の視界に見覚えのあるものが映った気がして目を凝らす。眼の色じゃない、服でもない。もちろんその背景でもない。その首元を飾るネックレスだと気づいた瞬間、背筋にぴりっと電気が走る。
「《女神の宝珠》……が、なんでここに」