夢幻堂
鈍い痛みが徐々に身体を蝕んでいく。あれが俺の"父親"なのだ。……名称としては。あるいは戸籍の上では。けれど、ただそれだけ、だ。愛情がないのは分かっていたけれど、あの憎悪の塊のような母とは違い、何の感情も俺には持っていなかった。否、存在そのものを忘れてはいなくても、感情のひとつも感じられない。憎まれても疎まれてもいない。ただ無関心なだけ。そこら辺に転がっている動かないガラクタと同じなのだ。
憎悪の感情を剥きだしにされるのとどちらがマシかと言われれば微妙なところではある。
(どっちだってべつに大して変わらない)
俺を不要だと思うことには変わらないのだ、どうせ。だけど、
「……なんで、痛い?」
呟きは落ちて消える。無意識に右手が胸を押さえている。治りはしないのに。
「俺は知らない、こんなの。……こんな痛みなんか……どうして俺がイラつかなきゃいけないのか───俺は知らない!! どうして、──……っ」
ぶつける相手もすでにない。でも膨れ上がった怒りは自分の力で抑えることはもうできない。ばらばらの思考のまま、俺は暴れ出す怒りを抑え込もうとぎゅっと目を瞑る。
なんのためにここ(過去)へ戻されたのか。
(よく考えろ)
《柩の番人》が封じていた俺自身の記憶。否───、もはやこれは俺の記憶ですらない、俺を取りまいていたすべての過去。なぜ、なんて問いかけたところで応えはない。俺は、たったひとりで過去の残像を魂へ刻み込む。感情がなかったはずの俺がぼろぼろになるほどの記憶がこのなかにあるのかなんて知りはしない。あの冷たく昏い檻の中ですら狂うこともできなかった自分自身を壊したのだとしたら───それは一体どうしてだったのか。
(俺自身の記憶じゃないなら、俺は知らなきゃいけない)
考えろ、と言い聞かせる。考えることはいくらでもある。
何も教えられなかったはずの自分が言葉を知っていたのはなぜなのか。大事な秘密をひとつだけ隠してくれるという《女神の宝珠》を持たせたのは誰だったのか───。あと少し、手を伸ばせば届きそうな場所に答えがある気がするのに、そのあと少しがとてつもなく遠い。手がかりはたったひとつ、
(そう、あの夢(ユメ)だ)
いつものように夢幻堂で惰眠を貪っていたときに見た夢。魂に刻み込まれた過去の傷痕の片鱗。あの夢の中で、誰かに助けを求めていた。何も教え込まれなかった自分は、感情なんて知る由もなかったはずなのに。
「……少なくとも……あの女じゃない」
俺を疎んでいた母親。穢らわしいと一方的に喚きたてて、生んだ子を殺そうと目論むあの女が言葉を教えるなんて、万が一もありはしない。そう、母親というのであれば、あの女に関しても分からないことだらけなのだ。シオンは少しだけ落ち着きを取り戻し、閉じていた目をゆっくりと開ける。目の前には変わらず父親であろう男と、それにしなだれかかっている女の姿がある。けれどもう声は聞こえてこなかった。聞きたいと思えば聞こえるのかもしれないが、怒りで思考がまともに働かなくなってしまうんだろうと思ってやめる。それより、とむりやり意識を変える。
(……俺を生んだあの女は、なにが欲しかったんだ? 権力か? それともあの男の愛情?)
すべての怒りは俺に向いていた。あの男のそばにいた愛人らしき女ではなく。逆にそれが不自然ですらある。俺さえまともならばと何度も繰り返していた。その理由は一体何なのか?
(分からないことだらけだ)
「それでも……向き合わなきゃいけないんだ……俺が俺であるために」
すうすうと隙間風が身体に吹き込んでいる気がする。息をするごとに傷を刺激されるような、痛み。どうして、なぜ。そんな想いだけがぐるぐると俺の心の中を掻き乱す。冷静になれと必死になって思うほど、自分が冷静じゃいられないのだと気付かされて、無意識のうちに舌打ちする。
(───イライラする……!)
原因が分からない。けれど、はじめて自分がイラついているのだと気がついた。なにも感じないと思っていたのにも関わらず。
「………俺は、怒ってる……のか?」
血の繋がりなんて俺からしたらどうだっていい。だって知らないのだ。父親であろう男の顔なんて、いまさっきはじめて見たばかりで、べつに俺のことをなんとも思っていないだろうなんてことくらいは想像がついてて、実際にそうであったところで俺自身もそうだろうなと納得すらしていたのに。だけど、いまの俺自身は間違いなく怒りを抱えていた。なぜ、どうしてと渦巻く心が証明していた。最初から愛せないのなら生ませなければよかったのだと。あるいは生まなければよかったと。
「……なんでだ!」
叫んで、俺はようやく自覚する。この感情が怒りなのだと。認めざるを、えなかった。そんなことはないと拒絶したところで、俺は俺自身が父親であろうあの男や、母親であろうあの女に怒りを覚えていることをなかったことにはできないのだ。理屈じゃなく、俺自身から生まれてくるどうしようもない苛立ちに、無意識に気づいていないふりをした。いや違う、ふりなんかじゃない。分かってなかっただけだった。この怒りがどこへ向いていた感情だったのか、俺自身がちゃんと向き合ってなかったからだ。たとえいままで知らなかったにしても、この状況が普通じゃありえないのだとしても。それでも、知らなかったことにはできない。知ってしまったら、知らなかったころには戻れないのだ。この激情が、いま目の前に見える覚えてすらいない両親によってもたらされた。
「愛せないなら、生まれる前に殺せばよかったんじゃないのか! 俺がなんかしたのか!? ただ───」
言葉はそこで途切れる。どくどくといつもよりも大きく脈打つ心臓のせいで声が震える。
「……ただ、眼の色が違って生まれてきただけなのに。……俺のせいなんかじゃない。そんなの、生まれる前に選べるなら左右で違う色の眼なんて望まない! 俺にどうしろってんだ!」
"狭間の世界"でも異端だと言われた左右で違う瞳の色。悪魔のような子どもに生まれたいと、一体だれが望むのだろう。望むはずもないのに。母親も父親も、左右で違う色の瞳なんかじゃなかった。それなのに、一体どうして俺はそんな眼の色で生まれてきたんだろう。
(新緑と葡萄の美しい色だと言ってくれたのはカンナだけだ……あいつが付けてくれた名前が俺を救った)
ふと、あの昏い牢獄のような地下牢を思い出す。いや、実際に牢獄なのだ、あそこは。のような、なんて生易しい場所じゃない。ただ、あの場所で俺はたしかに見られていた。感情を剥ぎ取られていたころには何も感じていなかった、あの色とりどりの無数の眼を。俺と同じように、左右で違う色の眼を。
ぶるっと身体が無意識にふるえる。怖かった。あの場所にいて発狂しないなんて自分で自分が信じられない。感情という感情がないことがどういうことなのか、はじめて分かってぞっとする。
(怨念? だってあれは生きてないやつらの眼だ)
それに、
「あんな狭いところに何人もいられない」